3

1/1
前へ
/22ページ
次へ

3

「義隆……?」 明くる日、瑞姫が大学から帰宅して離れの自室に向かうと、その前には馴染みのある顔が立っていた。 真っ直ぐとした姿勢で、真面目そのものを形にしたような美形──糸島義隆だ。 驚いて瑞姫がその名を口にすると、義隆は軽く頭を下げる。 相手もまた仕事終わりなのだろう、スーツ姿だ。その姿を見ると、どうしても拭いきれない恋慕が出てしまう。この義隆こそ、瑞姫の初恋であり、それを払拭できずにいる男でもある。 会えるとどうしても嬉しさが心を占領する。気を抜けば浮かれてしまいそうな自分を隠すために柔和な笑顔を作り、瑞姫は首を傾げた。 「珍しいね。このところお前の顔を見ていなかったけれど……今日はどうしたんだい?」 問いかけると、ああ、と義隆は声を出した。 「久々に、姫若がどうされているかと思いまして」 姫若ーーその呼び名に思わず瑞姫は苦笑する。それは幼い頃、周囲に呼ばれていたもので、いわば愛称のようなものだ。 「その呼び方はやめてくれないか。もうお付きでもないだろう?……まあ、元気にやっているよ。お前は?」 「では、瑞姫さん、と。俺ですか?俺は、まあ・・・それなりに、ですかね」 そういえば先日二番目の兄の様子がおかしかったな、と瑞姫は思い出す。となれば、この男が瑞姫の前に現れた理由はその辺が理由だろうと察しがつく。何せ目の前にいる男は、瑞姫に主従以上の思いはない。現状、お付きでもない相手は白田家への主従のみで接しているのだろう。個人的な感情など昔の我儘を思い出せば、せいぜい手のかかる子供、くらいだと瑞姫は予想している。 それでも接触は嬉しい。自分の思いが永遠に叶うことのない無駄なものであったとしても、だ。 「そう。それならば良かったよ。お前が別企業に就職した時は一騒動だったけれど……上手く やっているならば何よりだ。それで?用件はそれだけかい?」 本当は長く話したいくせに天邪鬼が騒いで瑞姫は話を切り上げようとしてしまう。心内で自分自身に、くそっ、と悪態をつきつつも笑顔は崩さなかった。兄に頼まれたご機嫌伺いならばここらあたりで義隆も引くかとも思われたが、今日は違った。 「瑞姫さん、飲みにでも行きませんか」 予想外の言葉に瑞姫は言葉を失ったまま義隆を瞠目する。そんな風に誘われるなんて、瑞姫は頭の端にさえ思い浮かべていなかったからだ。今までそんなことはなかった。 「なんですか、その顔……もう貴方も酒を飲める年齢ですしね。たまには良いと思いますけど。俺とでは嫌ですかね?」 自分の誘いに対してありていに困惑気味な瑞姫の様に義隆は苦笑を呈しつつ、首を傾げた。 「あ、いや……こんなこと、初めてだったものだから……そうか、うん……まあ、付き合ってやらないこともない、かな……」 嬉しさが度を越して、逆に今は冷静だ。言葉は相変わらずではあったが、口元を抑えながら、瑞姫が頷くと義隆の手があがり、くしゃりと瑞姫の頭を撫でる。六つ上の元お付きがたまにこうして頭を撫でてくれるのが瑞姫は好きだった。 頭を撫でられるわ、酒の席には誘われるわ……今日は槍でも降るのか?と思いながら義隆を見上げる。義隆は手を引かしつつ、 「じゃあ、明日にでもどうです?」 そう問いかけた。 「ああ、うん。大丈夫だ」 何か予定があったとしても、またとないこの機会を逃すわけにはいかない。瑞姫がもう一つ頷くと、義隆が笑顔になる。 「俺が予約をしておきますよ。18時頃を目安にお迎えに上がりますから。用意をしておいて下さい。じゃあ、今日はこれで。御前、失礼します」 礼儀正しく頭を下げて、義隆は母屋へと続く廊下の方に向かっていった。 これが兄の差金としても嬉しいものは嬉しい。らしくなく高鳴る胸を、瑞姫は手で抑える。明日はどの服にするか、と考えながら自室へと入った。 ※※※ 次の日。 きっかりと18時に義隆は瑞姫を迎えに来た。早々と自宅に戻った瑞姫は実に18時手前までコーディネートを迷っていたが、結局は半袖無地の白Tシャツの上に黒色のハイゲージニットカーディガン、そしてデニムパンツと無難な格好になってしまってため息しか出ない。 迎えに来た義隆は、会社帰りそのままらしく、昨日と同じようにスーツだった。 「行きましょうか。あまり人が騒がしいのは苦手でしょう?個室を用意しましたから」 半歩ほど前を義隆は歩く。歩き方は自分と同じ武道を嗜んでいる人間のそれで、スッと通った背筋が美しく、しっかりとしていながらも足音はしない。最近会うことの多い溝内とは違う歩き方。とはいえ、溝内も一般人にしては綺麗な歩き方ではあるな、と脳裏を掠めたが気分の良い今に考えることでもないので、息を吐いて考えは消した。 義隆が瑞姫を案内したのはしっかりとした個室のある居酒屋だった。 長年一緒に過ごしただけあり、自身のことをわかってくれているのが何気に嬉しい。四人卓に差し向かいで座る。 「俺はビールにしますけど、瑞姫さんは何にしますか?」 「同じものでいいよ。つまみも、適当でいい」 わかりました、と義隆は呼び鈴を鳴らして従業員を呼んだ。 順調に義隆と瑞姫のサシ飲みは始まった──が、三十分もすると誘ったはずの義隆はすでに出来上がっており、 「うぅ……俺の何が悪かったんだ。付き合うならご両親ご家族に挨拶すべきだろう!まず!」 と自身の恋愛失敗話を瑞姫に向かって溢し始めていた。瑞姫はその様子を面白そうに頬杖を付きつつ眺めている。内容はどうやら付き合いだしてすぐの女性の親に挨拶に行くとか行かないで揉めた挙句振られたとのことだ。 はじめこそ自分の話ではなく「最近どうですか?」とか「悩みはないですか?」とか聞いてきたものの、ビールを二杯煽った時点で義隆は既に怪しくなっていた。 糸島義隆というこの男──酒にめっぽう弱い。 本人は酒が好きであるし、体調がどうなるとかではないが、とにかく回るのが早いのだ。実家にて開かれた宴会で──瑞姫の兄、特に一番上はとにかく宴会やらが大好きで、家臣一同を招いてどんちゃん騒ぎするのも大好きだ──そのことは把握済みだ。グラスが空になる側から注いでやり、今、義隆は五杯目を飲み干したところである。 そしてこの義隆の酒癖で瑞姫が知る事実がもう一つある。次の日に記憶がすっ飛んでいることだ。今までサシで飲む機会なんてなかったが、今日は違う。 そろそろ頃合いか?と見計らって席を立つ。 「……姫若……?」 義隆にしては急に席を立った瑞姫が不思議で、見上げると、どうしました?と問いかけた。瑞姫は義隆へと微笑みつつ顔を向けて、 「振られてばかりのお前が可哀想だから、俺直々に慰めてやろうと思ってね」 そう告げつつ義隆の隣へと座って、その背中へと手を回し軽く自分の方へと引き寄せた。 呼び方を間違えるなんて、普段のきっちりとした義隆であればそうそうない。故に十分に酔いが回っていると判断できる。 バーで知ったことだが、泥酔している人間は厄介ではあるものの、コツさえ掴めば扱いやすい。ましてや横にいる男は昔馴染みで、酒の癖も含めてよく知っている。 自分への認識が嫌いではなく普通ということも含めれば、ある程度の接触は容易いと瑞姫は踏んだのだ。 案の定、義隆は特に瑞姫の接触を拒むこともなく、若あぁぁぁ、としなだれかかってきた。 「おかしな話だね。義隆は筋を通しているのに重いなんて・・・可哀想に」 背中を優しく叩きながら、瑞姫は同調するように言ってやる。交際初日に親御さんに挨拶なんて、引くも良いところで、ぶっちゃけ大笑いしてやりたいぐらいの事だが、それは敢えて言ってはやらない。何せ、義隆の未婚期間が長引けば長引くだけ瑞姫としては楽しい状況だ。いっそのことこの前後不覚の義隆をラブホテルに連れ込んで、上に乗った後に、明日の朝、目の前でさめざめ泣いて責任を取らすのもいいな、と若干下衆な方向の考えも浮かぶ。 まあ、義隆が挿れられる側がお望みであれば、それも吝かではない。この男を手に入れられるならば、瑞姫としてはセックス時の役割など些細なことだ。 虎視眈々とそんなことを考えつつ、好きな男の背中を撫でていると、その目が自分を見つめていることに気がついた。 「姫若は、おきれいな顔をしてますよねぇ……」 「ん?まあ……そうだね。母に似ているからね」 「あー奥様にぃ……お綺麗ですもんね、奥様……姫若は奥様にそっくりで……」 初恋というほどのものではないが、義隆の女性像の原点は瑞姫の母である白田蝶子夫人だ。幼い頃に見た蝶子の姿が忘れられない、と酔って話す義隆を、瑞姫は見ていた。ともなれば、男ではあるものの蝶子に瓜二つと言われるほどの自分であればチャンスはゼロでもない気がする。瑞姫は義隆へと顔を寄せる。 「義隆は母の顔が好きだものね。口付けでもしてやろうか?」 揶揄るように、息が触れ合いそうなところまで顔を近づけると、義隆が瞬きを繰り返した後に、へらっと笑った。てっきり少しは慌てるかと考えていたので、おや?と瑞姫が思っていると、義隆の背を撫でている反対の手を掴まれ、そのまま押し倒された。 「よ、義隆……?」 自分の上にいる男の目元は酔って赤い。まさかこういう事態になるとは思っていなかったので、先ほどまで策を練っていた瑞姫は吹き飛んで、今はたじろぐ瑞姫がいた。 義隆は瑞姫の様子に笑みを浮かべつつ、ちゅ、とその額に口付ける。 「いいんですよね?口付けしても」 「今、したじゃないか……他は、どこに……?」 瑞姫の胸の鼓動が自然と早くなり、頬に赤みがさした。顔の近い義隆へと、問いかける。義隆は、ふ、と笑う。 「そりゃあ、口付けと言えば文字通りに……口では?」 そう言いつつ、瑞姫の唇に義隆のそれが触れる。何回か啄むように唇が落ちてくる。瑞姫は、夢か?と瞠目した。けれど感触は確かにある。先ほどまで義隆の背中を撫でていた手を、その首に回した。 「義隆、もっと……」 またとない機会に、自分からも触れるようなキスを返しつつ、そう言って瑞姫は誘うように口を開ける。そうすると、義隆の唇がしっかりと重なって、舌が入ってきた。先ほどまで飲ませていたビールの苦い風味が瑞姫の口の中に広がる。 「んっ……」 瑞姫にとってはそれが初めてのキスだ。義隆がどうであるかは分からない。キスなんて今までしたことはなかったが、どうすればいいかは、なんとなく分かる。自分からも舌を絡めて、義隆のそれに重ね合わせる。二人の唾液が混じり合い、咥内へと落ちてきたそれを瑞姫は飲み込んだ。今まで少なくない回数を義隆と似たような男と過ごしてきた。それはもちろん、キスなし挿入なしではあったが、身体に起こる快感はそれなりに知っている。けれど、その中でも、このキスは瑞姫にとって一番気持ちが良かった。 「あ、ふ……っ……」 キスの合間に瑞姫が息を漏らす。それさえも奪うように義隆は瑞姫の唇を貪った。何度も角度を変えて互いに舌を吸い合い、重ね合う。長いことそんなキスを繰り返した後、義隆の顔が上がる。 「……綺麗だ……」 瑞姫の上気する容貌を見て、うっとりするように義隆は呟いた。今度は、瑞姫の頬や耳へと口付けを落とし始める。 「……っ、あ……よしたか……」 上擦った声で瑞姫が相手を呼んだ。ここは居酒屋の一室であって、ラブホテルではない。そういう行為をする場所ではないと重々と理解していながらも、瑞姫には拒む気が起きない。まずいな、と頭では思うものの、義隆を止められないでいる。首筋まで口付けの雨が落ち、甘噛みをされた。緩い快感が身体を走り抜けていく。 「ぁ、っ……」 甘噛みをした白い肌を義隆は強めに吸った。そこには赤い痕が一つ、確りと残っている。今まで同じようなことを他の男にされてきたのに、まるで感覚が違う。戸惑いながらも嬉しさに瑞姫の息が震えた。そうして幾つか痕を残した途端──義隆の身体が、がばり、と瑞姫の上に覆い被さってくる。これは流石にまずいか、と義隆の背中を瑞姫は柔らかく叩いた。 「……よ、義隆……場所を……変えたい……」 しかし、当の義隆は反応が──ない。もう一度、瑞姫は背中を叩く。 「……義隆……?」 名前を呼んでも、やはり反応はない。まさか、と思い瑞姫が義隆の顔を覗き見ると──既に義隆は規則正しい寝息を立てていた。瑞姫は思わず、嘘だろ……、と呟気を落としていた。弱いのは知っていたもののここで寝るとは。まさかのまさかだ。 仕方がないので意識のない身体を動かし、義隆の下から抜け出すと、愛しい男は気持ちよさそうな寝顔だった。 「…………バカ義…………」 はぁ、と瑞姫は深くため息を吐きながら座る。 「どうせならもうちょっと起きてろよ、この馬鹿…………」 義隆の少し乱れた前髪へと指先を伸ばして、整えてやる。もう一つ溜息を吐いて立ち上がると、さらりとした自身の前髪を瑞姫が掻き上げて個室から出た。タクシーを呼ばないとな、と考えながら身なりを整えるために洗面所へ向かった。 ※※※ 洗面所へと入り、鏡で確かめると、首筋のあちこちに先ほどの名残が残っている。その一つ一つを指先で辿り、このままこれが消えなければいいのに、と瑞姫は思った。小一時間もせずに潰れた相手はどうせ今日のことなんて記憶にない。こういう機会がいつあるかも分からない。ふう、と何度目かのため息を吐き出した──とき。 「今日のお相手はあの真面目そうな彼かい?」 そんな声が瑞姫へと聞こえて、驚いて瑞姫は鏡の中を見た。そこには──溝内が立っていた。 「え……」 不意なことに瑞姫が言葉を失っていると、溝内は鏡越しに、にこりと笑う。 「たまたま見かけてさ。俺以外にもいたのは知らなかったなぁ……」 さも残念そうに肩をすくめる溝内に瑞姫の眉根が寄った。珍事で口づけをしたとはいえ、義隆と自分はそういう関係ではない。今日なんて事を完遂してもいないのに、そういう勘繰りをいれられることに少しばかり苛ついた。 「……よしてくれ、あれはそういうのじゃない。連れが待っているから、失礼するよ。……また、ね」 「そうだね、また」 しかし取り立てて溝内と口論をする気にもなれなかった。笑顔を作りなおして、瑞姫がそういうと、溝内もまたあっさりとそう笑顔で頷く。 引き止める気はないようだ。 そのことに少し安堵しつつ、振り返って溝内の横をすり抜けようとした時、腕を掴まれた。 「ね、俺となんか似てるね……彼」 「…………似てないさ」 言われたことには思い当たる節も大いにあった。瑞姫の男を選ぶ基準は義隆なので、似ていて当たり前だ。けれどそれを告げたところで意味なんかない。溝内の腕を軽く振り払い、会釈をして洗面所を後にする。 先ほどまでの呆れを伴った幸福感は消え失せて、陰鬱なものが胸の中には迫り上がっていた。くそ、と小さく舌打ちをして、瑞姫は義隆の待つ足早に個室へと戻った。 「そっくりだと思うけどねぇ……」 瑞姫のいなくなった洗面所で、溝内はくつくつと笑いながらそう漏らした。
/22ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加