無垢なる桃源郷

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無垢なる桃源郷

 まるでどこか夢の中にあるように静かで、柔らかな光に包まれた街。そんな街の路地にうずくまるように眠る少年が一人。 「君、大丈夫かい?」  声をかけると、少年はゆっくりと顔を上げた。まっすぐとこちらを見つめる目にはどこか痛ましい光が宿っているようだった。 「ここどこ?」  少年はキョロキョロと辺りを見回す。服はボロボロで、手足は今にも折れてしまいそうなほど痩せ細っている。私は彼を怯えさせまいとしゃがみ込み、優しく微笑んだ。 「ここは、必要とした人の前にだけ現れる街なんだ」  少年は「ふうん」と曖昧な返事をした。  この街には、外の世界で傷ついた者たちが集まっている。優しいが故に、理不尽に心を踏み躙られてきた人たちだ。  チラリと少年に目をやる。  ——可哀想に。こんなに幼い子がここに来てしまうなんて。彼の境遇を考えるだけで胸が痛む。 「私は幸秋。君の名前は?」  少年は目を合わせることなく俯いたままだ。 「ここで寝ていては風邪をひいてしまうよ。ひとまず、私の家に行こうか」  彼は小さく頷き、立ち上がる。私は彼の小さな手をひいて、ほのかに甘い匂いのする家路を歩いた。  家に到着すると、少年のために温かいお茶を淹れた。  少年は静かに椅子に座り、興味深そうに部屋を見渡していた。年齢にしては恐ろしく大人びている。 「はい。熱いかもしれないから気をつけて飲んでね」 「ありがとうございます」  少年は小さく息を吹きかけて、お茶を一口口に含む。 「あちっ」という声と共に手元が揺らぎ、お茶が溢れそうになった。その瞬間、彼の顔が真っ青になる。 「ごめんなさい……」 「謝る必要はないよ。こぼしたとしても、すぐに拭けば問題ないさ」 「そうなの?」 「そうさ」  私が穏やかに答えると、少年は驚いたように私を見る。そんな彼に、私は言った。 「よかったらこの街を案内するよ。もし君が元の家に帰りたくなければ、だけど」  私の言葉に少年は小さく首を横に振る。  良かった。私はそっと胸を撫で下ろす。実際私もここから元の世界に帰る方法なんて知らないのだ。  そして私は少年を連れて広場へと向かった。人影が少なく活気はないが、穏やかな空気が流れている。 「ここが街の中心だよ。何か伝えたいことがあったら広場にある掲示板を使うといい」    掲示板を指差したところで、鈴を鳴らしたような優しい声が鼓膜を揺らす。 「あら、初めて見る子よね?」  彼女は夕美子さん。料理の得意なみんなのお母さんのような人だ。 「ついさっき路地にいるのを見つけて、保護したんです」 「こんなに小さい子が……。可哀想に」    少年が怯えた様子で私の背中に隠れると、彼女は悲しそうに目を伏せた後、少年にそっと手作りのお菓子を手渡して優しく笑いかける。 「私、少し歩いたところでレストランのようなものをやっているの。お代はいらないからいつでも来てね」  優しく手を振って去っていく夕美子さんを見て、少年は不思議そうに私を見上げた。 「……お金はいらないの?」 「いらないよ。この街にお金はないんだ。何かをしてもらったら代わりに何かをお返しする。さっきのレストランも、食事をいただいたらお皿を綺麗に洗ったり、野菜を育てるのを手伝うんだ」  そう。この街で「通貨」としての価値を持つのは、お互いの善意だけ。 もちろん、夕美子さんは強制的にレストランをやっているのではなく、街を思って経営してくれている。  少年は「へぇ」とさらに不思議そうな顔をした。 「この国に政治家はいるの?」 「難しい言葉を知ってるんだね」  驚いた。見たところまだ小学校に通いたてくらいだろうに、そんなことまで知っているなんて。 「いないよ。全員が満足する政治なんてできるわけないし、その責任を一人に押し付けるのも可哀想だろう?」 「じゃあこの街はどうしているの?」 「この街は一人一人の秩序ある優しさで成り立ってるんだ。皆が皆のために行動すれば、誰も辛い思いをしなくてすむんだよ」 「へえ」  少年が頷いた時、一人の青年が私のもとに駆け寄ってきた。慌てているのか、額には汗を浮かべている。 「幸秋さん! 例の男が捕まったようです」  ただ……と彼は困ったように眉を下げ、続けた。 「彼の処遇をどうするか決めあぐねていまして。よければ話し合いに参加お願いします」  こうしたことは初めてではなかった。秩序ある優しさで成り立っている街だとしても、例えば心の病で盗みを行ってしまったり、言葉を間違えてしまうことがある。  そうした場合は、街の全員で処遇を話し合うのだ。ただ、今回はそう簡単にはいかなそうだ。 「分かりました。すぐに向かいますね」  私が頷くのを確認し、彼は少年に目をやる。 「君も、何か思いついたことがあったらなんでも言ってね」  その言葉に少年は小さく頷いた。どうやら街の雰囲気や出会った彼らの人柄のおかげで、彼の緊張もほぐれてきたらしい。  私は、安心し緩みそうになる心を引き締め、話し合いの場へと向かった。 「何見てんだよカス。さっさと死ね」  部屋に入った瞬間、突き刺すような怒号が飛んでくる。部屋の中央には縄で縛り付けられた一人の男が椅子に座っている。  彼は険しい顔で周りを睨みつけ、怒りを吐き散らしている。盗みや暴力、荒らし行為をして捕まった男だ。  そんな男に、少年が怯えたように私の手を強く握るのが分かった。私は安心させようと、その手を握り返す。 「ダメですね。何度も反省を促しているんですがこの調子で……」  神父が困ったように私を見た。彼が誰かを縄で縛りつけるなんて初めてのことだ。  部屋の外には頬を氷で冷やしている女性が恐怖に染まった顔で覗き込んでいる。 「ここに辿り着いたと言うことは、冷たい言葉がどれだけ人を苦しめるか知っているはずなのに……。どうしてあんなことが言えるのでしょう」  彼女は恐怖と軽蔑の目で男を睨んだ。 「彼と長居をするのは良くなさそうだ」  神父の言葉で、その場にいた私たちは別の部屋に移る。  男の罵声が聞こえなくなった頃、少年が口を開いた。 「あの人は悪い人なの?」 「そうだね。でも悪いことをする人にもきっと事情があるんだ」  きっと彼にも何か理由があるに違いない。優しさの必要性を理解してもらえれば、きっと変わってくれるはずだ。 「この街の悪い人はどうなるの?」  少年が私に尋ねる。   「たとえば野菜を盗んだ人がいるとするだろう? そういう人は野菜を育てるのを手伝ってもらうことになる」  少年が理解できているかを確かめながら、私は続けた。 「そして育てる大変さを知り、罪の大きさを自覚し、謝罪する。基本的にはこうして労働を行なってもらうことで、改心にもつながるし、その分償いにもなる。誰も傷つけないやり方さ」  私の説明に食い入るように聞いていた少年は首を傾げた。 「反省しなかった人は?」 「うーん。そんな人はいないな。何が原因であれ、時間をかければ、きっと優しい人に戻ってくれるさ」 「でもさ、もともと悪い人だったらどうするの?」  少年の問いに、私は答えることができなかった。 「これは間違いなく『外の人間』だ。人の心を踏み躙るのをなんとも思わないような……」  青年が暗い顔でそう言う。女性は、それに賛同するように激しく頷く。 「でもどうしたらいいの? あの人達に道徳を説いたって無駄よ。私もう怖くって……」 「どうにか時間をかけて優しさを取り戻してもらうしかない。きっと彼も忘れてしまっているだけなんだ」  神父がそう呟いた時、少年が小さく手を挙げた。 「殺さないの?」 「え?」  彼の言葉に、この場にいた全員が耳を疑うが、少年は気にせずに続ける。 「お母さんが言ってた。『根っこが腐ってる奴は死なないと治らない』って」 「そんな野蛮な」  神父が信じられない、と目を丸くした。その言葉は、子供に言って聞かせるにはあまりに残酷だ。 「……だから僕も治さなくちゃいけないんだって」  少年は、悲しそうに俯き、小さな声でそう続けた。彼の声に、私たちはかける言葉も思いつかない。  私にはそっと彼を抱きしめることしかできなかった。 「それしかないのか……?」  静まり返った部屋で、青年が諦めたように呟く。  本当は分かっていた。外にいる人達の純粋な悪意。それに耐えきれずに逃げ出したのが私たちだからだ。  我々は彼らの悪意を批判するだけで抵抗もできない臆病者なのだ。そして、私たちの築き上げてきた「秩序ある優しさ」の世界は、「許容できない悪意」に対してはあまりにも脆いのだと。  重苦しい空気を祓うかのように、神父はコホンと咳払いをする。 「とりあえず、今回の件は街の皆の意見を聞いて多数決で決めよう。そして、その後に今後同じようなことが起こった場合の対策を考えることにしよう」  後日、掲示板にて開催された多数決で選ばれたのは『処刑』だった。  街の誰もが、彼によって自身の心が傷つくのが怖かったのだ。そして、私たちは彼のような人間を正しい道に戻す術を持たない。  横にいた女性が、まだ腫れの残る頬を押さえて安堵したようにため息をついた。 「良かった……これで安心して眠れるわ」  街が安堵に包まれる中、私は焦りを感じていた。この街はいつか終わりを迎える。 ——私たちの手によって。  かつて秩序ある優しさで成り立っていたこの街に、私たちは「処刑」という暴力を手段として加えてしまった。正義を名のもとに人を傷つける理由が、私たちの中に芽生えてしまったのだ。  一人の悪意が私たちの街の理念を瓦解させ、外の世界で私たちを苦しめてきた暴力が、今ここに流れ込んでくる。  悲しみを知っているはずの私たちが、同じように悪意に染まる日はそう遠くないだろう。  しかし、私たちは許容できない悪意に立ち向かう術を持たない。優しい国を作ろうなんて、最初から無理な話だったのだ。 「あの男の人はこれで治るね」  少年の無垢な瞳が、終わりに向かうこの街を静かに見つめていた。
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