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 冷蔵庫を閉め、ユリは満足げにほほえんだ。  ガトーショコラを再び作ったのだが今回もうまくいった。これは柏木が帰ってきてから食べよう、と時計を見つめる。  時刻は十一時。今日は遅くまで寝てしまった。気づいたら自分の寝室で布団にくるまり、柏木は出勤していた。  そろそろ買い物にでも行こうと、ユリは再び冷蔵庫を開ける。  柏木は明日は休みだと言っていたし、せっかくだからビールでも買ってこよう。ユリはビールは得意ではないからチューハイを。おつまみも何品か作ろう。  以前、鶏皮を甘辛く炒めたものを出したら好評だった。胸肉から剥がして冷凍したものを取り出す。  食材をスマホにメモしていると家のチャイムが鳴った。  ユリがこの家に来てから初めてのことだった。こんな平日の昼間だと宗教勧誘や怪しい修理業者だろうか。  とりあえず誰がチャイムを押したのか確認しようと、リビングにあるインターホンの画面を見る。  画面越しに見た顔になんで、と泣きそうになった。  そこに映っているのはずっと会っていなかった雅史だった。 「どうして……?」  幻覚だろうか、とも思ったが小走りで玄関に向かう。  扉を開けると懐かしいにおいがした。 「ユリ!」  開けた直後、雅史に抱きしめられた。目を見開いたまま力が抜け、ユリは彼によりかかるように崩れ落ちた。 「まさふみ……!」  ユリは雅史の背中に腕をしっかり回し、大泣きした。自分でも驚くほど秒で涙があふれて止まらなかった。  バレンタイン前日。かつて別れを決意した恋人たちは凍てついた愛をとかした。 「俺が至らないばかりに、ユリにつらい思いをさせてごめん。本当に悪かったって思ってる」  玄関の外で話すのも何なので雅史を家に招き入れた。お茶を出し、いつも柏木としているようにソファに横並びで座った。 「私も……イライラしていることをちゃんと言わないで、一人でずっと怒っていてごめんなさい。分かり合えないことなんてあって当たり前なのに」 「そう自分を責めないで。俺がユリに気を遣えなかったのも悪いんだ」 「うん……」  暗く重たい雰囲気が嫌で、温かいお茶を飲んだ。  それまで遠慮していたらしい雅史もカップに口をつける。 「雅史は……これからどうしたい?」 「ん。それはもちろん、ユリと一緒に生きていきたいよ」 「そっか……」 「ユリは嫌かな……? 歳のわりにしっかりしていなくて、嫉妬もしないような鈍い男は」 「それでもいい、とは言い切れないよ」  雅史ががくっとうなだれた。ユリはマグカップを握り締めて中身を見つめた。 「柏木さんと、こうして他の男の人と初めて過ごして、男なんて星の数ほどいるんだなって実感したもん。……でもね、私は雅史がいい。私が失敗したことがあっても笑って見守ってくれて、大好きになった人だから。口ではあぁ言えても簡単に嫌いになんかなれないよ……。それに、私は雅史が他の女の人と一緒になるとこなんて見たくない」  不安げな面持ちで彼のことを見つめると、雅史は首を横に振ってユリのことを抱きしめた。 「俺だってユリと別れて生きろなんて嫌だよ。そんな簡単に嫌って別れるほど、安っぽい思い出を作った記憶はない」  思い出、か。いろんなところへ二人で行って笑って、楽しんで、雅史のことをさらに好きになったことを思い出す。  自分が今まで感じた嫌悪はどこへ行ったのか、と人から呆れられてもかまわない。それも彼の一部だ。時間がかかっても受け入れたい。  例え小さなことでも、嫌なところは良い部分よりも印象が強くなっていつか我慢できなくなる。それは雪華にも美晴にも言われた。  例えこの感情が今だけのもので、またいつか家出をしたくなる時が来ても、雅史を選びたい。  柏木が帰ってくるまでの間、ユリは雅史に手伝ってもらいながら荷造りと片付けをした。  短いようで長かった滞在期間だが、ユリが買い足した物は多い。  洗面台に置いてある歯ブラシとコップを回収したら、柏木の分がポツンと残されて寂しそうしていた。  食器類は来客用の物を使っていたので、食器棚の奥へ戻す。もちろん布団も。布団は雅史に頼んで干してもらい、シーツ類は洗濯した。  自分が過ごしていた家を突然去るのは寂しい。  ユリはベランダで洗い立てのシーツを竿にかけた。そこから見えるのは周りの家や田畑。ここから見える田舎の風景が好きだった。  雅史への不満をまぎらわせてくれたのはこの家のおかげでもある。快適に過ごさせてくれたからか、情が移ってしまったらしい。 「ユリー。柏木さんは何時に帰ってくるの?」 「十七時くらい」  柏木の家は会社から近い。同じ部署の者ならほとんどが知っている。しかも信号は無いに等しいのでかなり早く帰ってくる。  出て行く前にお礼をかねてユリは最後の晩御飯と常備菜を作り始めた。  冷蔵庫の食材を使い切るために、おつまみやおかずを作った。一人になってからも栄養バランスのとれた食事をとってほしいところだ。これらをなぜかたくさんあったタッパーに移し、テーブルに並べて冷ます。 「ユリはご飯を作る時、そういう顔をしているんだね……」 「へ?」  最後に鶏皮を切っていると、その横に雅史が並んだ。 「いや、優しいなって。いつもありがとね、家事をこなしてくれて。俺は簡単なことしかできないからユリがいてくれてありがたいよ。でも、これからは俺も一緒にやる」 「じゃあ……雅史にもお願いしようかな?」 「がんばる……」  雅史がたじろいだ様子にユリは笑った。こんな風に笑いあうのは随分久しぶりな気がした。  家出直前までは雅史と一緒にいても笑うことができなかった。  以前のようにたくさん笑いあっていた時に戻れるなんて、夢にも思わなかった。再び顔を合わせることだって。  ユリの目の端がわずかに光った。  帰ってきた柏木を二人で出迎えた。柏木は雅史がいることに驚くことはなく、いつものように作業着から着替えた。  そのタイミングで雅史は席を外した。上司から電話が来たとかで、自分の車の中でパソコンに向かっている。 「あの、柏木さん」 「分かってる。行くんだな」  全て察したような顔をした柏木に、ユリは頭を下げた。 「突然来てこちらの事情に巻き込んで、また突然消えることにしてごめんなさい」 「謝ることはねぇ。俺はむしろお前がいてくれて助かっていたんだ。初めはさっさと帰れとか思ってたけど……今は寂しいくらいだよ」  初めて見る瞳を細めた表情。この哀愁は雅史には出せない。急に、彼は自分より大人なのだと思い知らされた。  中年太りとは縁のなさそうな薄い体、骨ばった大きな手、日に焼けた腕。今まで気にしたことのない彼のパーツに目が奪われる。  今までも、会社にいた頃も、感じたことのない色気。そういえば松嶋あたりが”柏木さんがモテないのはおかしい! こう見えてイケおじ!”と騒いでいた。  その頃のユリは同僚と笑いながら見ているだけだった。松嶋が柏木に”こう見えて、は余計だろ”とドツかれていることにも。 「あは。娘みたいでした?」  ごまかすように冗談ぽく笑うと、柏木は柔らかく笑った。  今までそんな表情を見せたことなんてなかったのに。ユリは唇にぎゅっと力を入れた。 「娘通り越して奥さん。嫁さんが来たような気分だった」  たまらず柏木の背中に腕を回した。彼はいつしかやってくれたように、ユリの頭の上に手をのせた。 「私も楽しかったです……。あっちに行ってからホームシックでたまに泣いていたから。雅史が元気づけてくれることもあったから平気だったけど、実際にこっちに来て住んだら落ち着きました。……これなら帰っても平気です」 「お嬢がそう思ってくれたんなら俺もよかったよ。ま、俺はお嬢を引き取ってもいいかなって思ってたけど」 「それって娘として?」  ユリが顔を上げて問うと、柏木は乾いた笑い声を上げた。  彼が冗談でもそんなことを言うのは意外だった。  柏木は最後に力をこめてぽん、と頭に手を置く。それが終わりの合図のように、ユリも腕の力をゆるめてしまった。 「ユリ、お待たせ」  車から雅史が戻ってきた。  いいタイミングだったかもしれない。柏木にもう一度ふれてしまったら帰れなくなりそうだった。  柏木に背中を押され、ユリは雅史の隣に収まった。 「……未来の嫁さん、大事にしてやれよ。俺にはそんなこと言う資格はないけど」 「いえ。肝に命じます。もう彼女を不安にせることはしませんから」 「お嬢もストレスを溜め込むなよ。言いたいことがあったらすぐに言いな、ウチに来ることがないようお願いする」 「もう大丈夫ですって! 寂しいとか言いません。帰りたいとか」 「まぁ言ってもいいけど旦那になぐさめてもらいな」  若造二人は歳上のおじさんにそれぞれ言葉をもらい、会釈をした。最終的に二人そろってお世話になってしまった。  雅史は柏木にお礼としてお札を何枚か渡そうとしたが、彼は頑として受け取らなかった。 「ありがとうございました、柏木さん。仕事頑張ってくださいね。あと、皆にはくれぐれも内緒に……」  ユリが人差し指を立てると、柏木は半目になった。 「言うわけねぇだろ。俺の心の中にしまっておくわ。ご近所でも噂にならないかヒヤヒヤしてたし」 「う……。せっかく見つからないように草むしりしたのに……」  唇を尖らせてにらみつけると、柏木にはよ行けと言わんばかりに手で追い払われた。  玄関でつま先を打ち付け、ユリは柏木の方へ振り向いた。 「さよなら────柏木さん」 「元気でな、お嬢」  小さく手を振って背中を向けた時、足が押し留められた。  柏木の声がかすかに震えたような気がしたからだ。  今振り向いたら二度と動けなくなる。迎えに来てくれた雅史にそんな不義理はできない。見送ってくれた柏木にだって。  ユリは外へ飛び出ると、とびきりの笑顔を向けた。そして二人の間をドアで隔てた。
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