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最終話
雪華たちに自宅に帰ったことを伝えたら、二人は安堵した笑みを浮かべた。ように、電話越しで感じた。
バツイチのおじさんより、察することが苦手で頼りないけど変わろうとしている婚約者の元にいる方が安心するらしい。
久しぶりに愛の巣へ帰ってくるとひどく懐かしく、置いて行った荷物たちに申し訳なさすら感じた。何もかも投げ出すつもりで出て行ったのだと、自分のしたことを反省した。
台所にはコンビニの袋がいくつか転がっている。コンビニ弁当の残骸だ。ユリはそれらを無言で片付けて掃除機をかけ、お風呂場やトイレの掃除を始めた。
こうしていると柏木の家に突撃した日のことを思い出す。彼の家もなぜこれを捨てないのか、というものが転がっていた。
一人暮らしの男は片付けができないのが多い、というのを教えてもらった。ビールの缶をその辺に放置する柏木を怒った日が懐かしい。
浴槽の掃除を終えると、洗面所で雅史が掃除をしていた。慣れない手つきで古い歯ブラシを使って。
”ありがとう”と声をかけると雅史はほほえんだ。さっそく家事の分担を実行してくれたのが嬉しい反面、最初のうちだけではないかと疑ってしまう自分が嫌だった。
こんなに気を遣ってもらえるようになって、雅史の”個”を殺しているのではないかと罪悪感を覚えるようになった。
だが、それも含めて全てを雅史に話すことができるようになり、以前と比べて分かり合えることが増えた。
それでも、”この時柏木さんだったら……”と、未だに考えてしまう。
二人で過ごした日々はユリにとって忘れられないもので、どんなに奮発した旅行よりもよく覚えている。
柏木と過ごした何気ない日常。交わした言葉。与えられた優しさ。
雅史だってよくしてくれるし、あの時以上に想い合っている。
それでも彼の名前や顔を未だに思い返すなんて裏切るようで、その度に後ろめたかった。
今は雅史の前で彼の話題を口にすることは無い。むしろ、無意識に暗黙の禁句にしている。当時の不仲を思い出して雰囲気が気まずくなりそうだから。
この心情を知ったら”俺程度のことで変な気を遣うのは夫婦ぽくないな”、と柏木に鼻で笑われそうだ。
「ユリ。いつもありがとね」
「ううん。いいの」
晩御飯を二人で囲み、ユリは首を振った。柏木の家へ家出した日から早四年が経とうとしている。
二人はあの後すぐに入籍し、ユリは本格的に働きだした。そのお金でタブレットを購入し、デジタルでイラストを描き始めた。
最近では学生時代や前の会社、今の職場や雅史や友だちとの間にあったおもしろいことをマンガにしてSNSに上げている。
それが独特で面白い、これが現実にあったなんてうらやましい、とじわじわとバズってきている。
いつかはこちらを本業にしたいと画策していた。
雪華一家とは家族ぐるみでの付き合いが今でも続いている。最近では花梨もすっかり大きくなり、言葉を話せるようになった。
彼らの家に行っては花梨の写真を撮らせてもらい、子どものポーズ集をスマホにまとめた。イラストを描く時の参考にしたいからだ。
”ユリがめちゃくちゃバズったら報酬もらわないとね~”と言うのが、雪華の最近の口癖だ。
寝る前のユリはイラストのカラーを仕上げていることが多い。
今夜も自室で大きなデスクトップに向かっていた。手元には板タブとペン。
ドアをノックする音に振り向くと、雅史があくびをしていた。
「ユリ。明日早いから先に寝るね」
「うん、おやすみー」
近くに来た彼と軽くキスを交わす。ぼんやりとした様子の彼は、おぼつかない足取りで寝室へ消えた。
『おま、コラはよ寝んか』
『あともうちょっと……』
『おーコラそれ何回目だと思ってんだ』
柏木の家でお世話になっている間、読書に熱中して夜更かしをする時期があった。早く寝ろと柏木に催促されたものだ。
────あなたは今。何をしていますか。
ユリは今でも柏木がちゃんとご飯を食べたり、休みの日にダラダラしすぎていないかとか心配している。実際に言ったら”母ちゃんかよ”と笑われるだろうか。
柏木もだらしない所はあったが嫌ではなかった。むしろ笑っていたことの方が多かった気がする。今でも当時のことを思い出してほほえんでしまうくらいには。
ユリはゆるんだ頬をなでると、液晶画面を見上げた。
SNSに投稿するマンガのネタも、柏木の回には思い入れが強い。
思い出したように眠気が押し寄せてきた。ユリはあくびをしながら伸びをし、買い替えたばかりのスマホを手に取った。
ありがたいことに最近はコメントを多数寄せられるようになった。その中で目についたものがあり、思わずタップして見入った。目が一気に冴えた。
『リリィ先生の作品は人にも見せて楽しんでいます! リアルだし出てくる人もおもしろくて何度も読み返してます! 俺の先輩がカシワギさんが出てくる時は幸せそうだなってうらやましそうでした^^』
ユリは嘘でしょ、と目を見開いて震えた。
”まっつん”という名前のアカウントからのコメント。ユリはこのアカウントを知っている。
『この海外のドッキリ動画めっちゃおもしろくないですか』
『すげー! このインフルエンサー、地元の居酒屋に来たんだ!?』
と、まっつんこと松嶋はよく、柏木にスマホを見せていた。ユリも時々一緒に見せてもらうことがあって、その時にアカウント名を知った。
コメントはさらに続いており、ユリは唇に力を入れた。
『先輩が主人公みたいないい奥さんならカシワギさんみたいにウチに来てずっといてくれってぼやいていました^^; 先生通報してくださいw』
この先輩は柏木? いや、そうとしか思えない。松嶋は柏木のことが大好きで有名なので、会社のことは柏木が絡むおもしろいことしかツイートしない。
ユリは彼のプロフィールページへ飛び、投稿をさかのぼった。
『先輩が妙に楽しそう。事務のお母ちゃん曰く奥さんがいた頃みたいらしい。猫預かっただけなのに?』
『先輩が早く上がれるように作業を早く終わらせるようになった。金曜日の夜はよく呑みに行ったのに、まっすぐ帰るんだが。家でご飯用意してくれる女いるだろ』
『先輩の家に遊びに行かせてもらえなくなった。猫モフらせてくれよ! やっぱり女か?アラフォーにして彼女できた?』
『先輩の家にアポなし凸するドッキリ動画撮ってもいいですか、って聞いたら仕事押し付けられた。悪魔』
ついでにその投稿のコメントをのぞいたら、”草”とか”今日も先輩とラブラブだな”とか、けっこうおもしろがられている。
『先輩が突然、屍みたいになった。フラレたんですかってからかったら車両の掃除を任された。結局一緒にやってくれたので今日は悪魔じゃない』
その投稿の日付は、ユリが柏木の家を出た日のすぐ後だった。あの時のことは日付までよく覚えている。
熱くなった目から涙がこぼれた。
自分は柏木に影響を与えていた。
突然”呑みに行ってくるわ”なんて言われたことはない。もしかして気を遣って一人にならないように、まっすぐ帰るようにしてくれていたのだろうか。
そして彼はショックを受けていた。ユリがいなくなってしまったことに。客観的に見て分かるくらいに。
ユリはデスクの上で肘をついた。手の甲で頭を支え、肩を震わせた。
自分を引き取る気でいた、と言われた時に聞き出すべきだった。無理やりにでも。
最後に彼を抱きしめた時、腕を回されることはなかったからそれが答えだと思っていた。
その本意に気づけなかった当時の自分は子どもだ。抱きしめ返さなかったのは、柏木の大人の理性だと見抜けなかった。
(今は許されなくても……。いつか、お互いに独りで巡り会えた時は────)
もう二度と、寂しいすれ違いをしないように。別々で幸せの道をたどることがないように。
柏木に愛されていたことを数年越しに知ったユリは、泣き濡れた瞳を閉じた。
fin.
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