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彼のその前
朝晩の冷え込みがゆるやかになる今日この頃。
この時期の始業時間は早い。柏木はここ数週間、午前八時前後に出社してトラックに乗り込んでいた。
だから新入社員の顔を朝に見かけたのはこの日が初めてだった。
「おはようございまーす!」
「おはよクマちゃん。元気ねー」
「若いんで!」
「その若さ分けてくれよ~」
午前九時。柏木は喫煙所で煙草片手に配送ルートをチェックしていた。喫煙所のベンチに腰掛け、横に缶コーヒーを置く。朝食代わりだ。
冬場はすぐに冷める缶コーヒーだが、春の訪れを感じるようになってからはぬるくなるまでの時間が長い。
「あ、あのコ新しく入ったコっスね」
横に立った松嶋が、電子タバコを握った手で指差した。その先には先輩社員とじゃれているユリの姿があった。
「ほー。小っちゃいコだな」
灰皿に灰を落としながら目を細める。
キャップからのぞく束ねた髪、少し大きめの上着、真新しいジーンズ。まだ着慣れていないのがまるわかりだ。当時、彼女は18歳。30歳になる柏木には眩しかった。
「でもめちゃくちゃ力持ちですって。なんでも一人で運んじゃうから皆びっくりしてます」
「ほ~ん……」
毎年新入社員を見かけるし、一度に何人も入ってくるがなぜかユリは目立った。よく気がついて働き者だと誰もが認めている。
こうして見ていると笑顔に幼さがあり、可愛いらしい。つい構いたくなる愛らしさがある。
ユリは他の先輩社員にも声をかけられ、二人に挟まれて倉庫の中へ消えた。
「俺はまだ話したことねぇな。熊谷さんだっけ?」
「そ、クマちゃん。もしかして柏木さん、新入社員のコと話したいんスか?」
「おう。むさくるしい野郎の顔は見飽きた」
「俺も同感……って言いたいとこだけど、柏木さんはイケおじなんだよなー! ちきしょー!」
「そんなに持ち上げても何も出ねぇぞ」
柏木は興味なさげに煙を吐き、缶コーヒーを手に取ってあおった。
「あのコ、長谷川さんがすぐに気に入ったみたいですよ。元気でいいコだ~って」
「あー確かにお母ちゃん好きそう」
「また怒られますよ」
「親しみを込めてんだよ」
柏木は”その呼び方やめなさい”と苦い顔をする彼女の顔を思い浮かべ、笑いをかみ殺した。
松嶋は反対の手で親指を立てると、柏木に向かってウインクを落とした。
「もうじき新入社員歓迎会ですから。お近づきになりましょうや。クマちゃんは年上の男は好きかな~」
「なんだ?」
「マッチングです! 柏木さんの新しい嫁さが……」
「余計なことすんな……。女はもういいんだよ……」
柏木は吸い殻を灰皿に押し込むと立ち上がった。
彼は去年離婚したばかりだ。元妻は高校から付き合いのある女性だった。母親以外で付き合いの長い女性は彼女だけなので、心に空いた穴は大きい。ちょっとやそっとでは埋められない傷になった。
しかし、その傷を癒したいとは思わない。一人で生きていく覚悟はしている。
松嶋は電子タバコを作業着の胸ポケットにしまった。
「もう一年スよ。新しい恋に身を焦がしましょうよ。ほら、春! 恋の季節って言うじゃないですか!」
「いらねーことすんな。おら仕事だ仕事」
柏木は背を向け、自分で荷物を積んだトラックへ向かった。
柏木はグローブをはめた手でリヤドアを開け放つと、手前にあるダンボール箱を引き寄せた。
中身はファンシーな筆記用具やノート、付箋、筆箱、キーホルダーなど。
柏木は仕事中、もし子どもがいたらこういうものを買い与えたかもなと思うことがある。
何色が好きか、どんなキャラクターが好きか。そんな話をする機会は永遠に失われてしまったが。
ダンボール箱を搬入口に置くと、誰かに呼ばれた気がして顔を上げた。
「柏木さーん。お世話になりまーす」
「あ、どもども」
五十代くらいの小太りの男が笑顔で現れた。彼は黒ずんだ作業着姿で、首にタオルをかけている。
何年も通っている取引先では、搬入口の担当者や警備員に顔を覚えられる。時間に余裕がある時は彼らと雑談することもある。
「春休みが終わって落ち着きました?」
「そんなところです。柏木さんところもそうでしょう? お互いお疲れ様でした」
春が来たとは言えここは日陰で冷える。にも関わらず、彼はタオルでこめかみを拭っていた。
春休み期間は時間を問わず親子連れが多く来店し、フードコートも売り場も忙しかった、と彼は話した。
ここは柏木の住む町より大きく、商業施設も多い。映画館が併設されているところもある。集まる人の数も多い。
ふと、担当者の向こう側に女性の姿を見つけた。白のパーカーに派手な髪色をした女性。前髪をいじる指の先には尖ったカラフルな爪。ここのテナントの一つであるファンシーショップの店員だ。このダンボール箱に用があるはず。
彼女は柏木に気がつくと、気まずそうに顔をそらした。
『私、あなたのことが好きです! 連絡先……交換したいです』
以前、白パーカーの彼女に迫られたことがある。
告白してきた彼女は当時、高校生のバイトだった。今は正社員として登用されたらしい。
相手は未成年だし、その時は妻がいたのでもちろん断った。
『おじさんと付き合ったってしょうがないよ』
『でもっ、好きなんです……! 歳とか関係ないです!』
『……先に逝かれるのは悲しいだろう』
重苦しい顔で現実を突きつけたらその場で思い切り泣かれてしまった。その様子を見ていた警備員には同情されたがいい迷惑だった。
松嶋あたりに酒の席のネタにされそうなので、このことを会社で話したことはない。
柏木は彼女に気づいていないフリをし、担当者に納品書を渡す。
「……次がありますのでこれで失礼します」
「あ! すみません、長々と。お疲れ様です、またよろしくお願いしまーす!」
担当者は丸い顔に笑顔を浮かべて手を振った。
柏木はトラックに戻りながらグローブを外し、胸ポケットに押し込んだ。
昼間になり、車内があたたかくなってきた。トラックに乗り込むとエンジンをかけて暖房を消した。
配送から戻った柏木は事務所へ行き、長谷川に伝票の束を渡した。
「あ、柏木君。明日の荷物、ユリさんが作ってくれてるよ」
「え、もう? 早すぎ」
「仕事が早いのよ。次は次は? ってすぐ事務所に顔を見せるんだよね」
彼女から配送表を受け取った柏木はトラックバースへ向かった。
倉庫を抜けた先にあるここは、トラックを接車させて荷物を積むことができる。帰ってきた者からここにバックで停めていく。
柏木のトラックは荷台のドアが開かれ、そばにダンボール箱が積まれたカーゴが並べられていた。後は配送順に荷台に積むだけだ。普段だったらピッキングされた商品を自分で箱詰めしている。
「クマちゃん、次こっちー」
「ふぁ~い」
先輩社員に呼ばれたユリが前を通りすがった。その口には魚のしっぽのようなものがはみ出ている。
(しっぽ?)
思わず二度見すると、後ろから肩を叩かれた。
松嶋だ。彼はたい焼きを口に挟んでいた。お魚くわえたどら猫……と歌詞が思い浮かんだが、彼が差し出す紙袋に手を突っ込んだ。
柏木たちが訪れるほとんどの商業施設には、だんごやたい焼きを売るテナントが入っている。松嶋は時々こうして買ってきては、”先着十名! 持ってけドロボー!”と差し入れをする。
「頑張り屋のクマちゃんに買ってきたんスよ。ついでに柏木さんもどうぞ」
「ついで……まぁいいけど」
紙袋に手を突っ込むと、たい焼きはまだあたたかかった。それを頭から食べるのかしっぽから食べるのか、なんて話しながら食べる。
「俺戻ってきたばっかなんスけどびっくりです。もう荷物できてる」
「俺もだよ」
柏木はしっぽを飲み込み、倉庫の方を眺めた。そこでは仕事に戻ったユリが大きなダンボール箱を組み立てている。小柄なユリが膝をつくと、体が半分隠れてしまう大きさだ。
ピッキングした商品を入れるカゴからダンボールへ移し、袋に入れた納品書を一番上に乗せた。蓋を折りたたみ、ガムテープで止める。それを軽々と持ち上げ、大きな音を立てることなくカーゴへ移した。
「……早いな。怪力だな」
「頼もしいですよね~」
決して早いわけではないが、黙々と丁寧に作業する様子には好感が持てた。 他の新入社員と比べてテキパキと動いている。
一生懸命な横顔に、自分が新入社員だった頃を思い出す。ここまで全力だったか、と聞かれたら即答できない。
明るく働き者で、根性も愛嬌もあるユリの姿に心を救われている自分がいた。
「柏木さん……? これ、柏木さんのルートのですよね」
遠慮がちな声に呼び止められたのは、繁忙期から抜け出した頃だった。
振り向くとユリが薄いダンボール箱を差し出していた。
噂の”クマちゃん”と話したのはこの日が初めてだ。
「お嬢さんや、ありがとな」
「どういたしまして! 今から出発ですか?」
「そうそう」
両手で受け取ると、いつも遠目で眺めていた笑顔が目の前で咲いた。
屈託のない笑顔につい話し込みたくなった。が、そうはいかない。松嶋をはじめ、他の配送員が続々と出発している。
「いつも頑張ってるな」
せめて一言だけでも、と口をついて出たのはありきたりな言葉だった。
彼女は一瞬だけ首をかしげたが、頬をかいてはにかんだ。
「そうですかね? ありがとうございます」
「今までの新人で一番だと思うよ」
「へへ……」
あまり褒め倒すのも気持ち悪いだろうか。まだ話したこともない相手だから。
柏木はそのまま去ろうかとも思ったが、迷って立ち止まった。キャップを被り直したユリが目をしばたたかせる。
彼女は頑張り屋だ。しかし、無理をしているのではと思う時がある。周りの期待に応えようとはりきり過ぎているのでは、と。
入社当初からうまい具合に休憩を挟み、仕事をしている自分だからこそ伝えられることがある気がする。
無理をせず長く楽しく働いてほしい、という願いもこめて。
柏木は前髪をかきあげて笑いかけた。
「そこまで丁寧にしなくていいぞ……。適当でいい、適当で」
もっと誰かに頼っていい。気を張り過ぎなくていい。時にはタメ口をきいて打ち解けて。愚痴をこぼしたくなる日もくるだろう。
「皆、いつでも助けてくれるから。覚えておいてくれ」
「はい!」
らしくないことを並べて一人で赤面した。しかし、彼女はいつもの明るい返事で大きくうなずいた。
その姿に誓った。
いずれ彼女が結婚や転職で出て行く時には、誰よりも幸せを願って送り出そうと。
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