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6
ユリと柏木が一緒に出かけることはない。
田舎はいつどこで知り合いに遭遇するか分からないからだ。
だが、この日は大型のモールに行きたくて柏木に車を出してもらった。
「まぁ、たまの遠出もいいわな。前はよくこうして出かけてたんだけどな」
「へー。なんか柏木さんってインドアのイメージがあります」
「当たってる」
日曜日だからか、モールの駐車場はたくさんの車が行きかっていた。二人して空いているところをきょろきょろと探し出し、ようやく見つけるとユリは一人で車から降りた。
「柏木さんは行かないんですか?」
「買い物ないし、人混みの中行きたくねぇし」
柏木は頭の後ろで手を組んで目を閉じた。昼寝する気満々のようだ。いつの間にか座席の背中を倒していた。
「そうですか……。じゃ、買い物終わったら戻ってきますね」
「おう、ごゆっくり。俺はごゆっくり寝てるから」
「自分に丁寧語使うな」
柏木に冷たく言い放って、勢いよくドアを閉める。
警備員が誘導灯を振ってる後ろを通り抜け、モール内へ向かった。中に入るとこれまた人が多い。ユリも実を言うと人混みは苦手な方だ。
雅史は人混みは平気で、速足ですいすいと進んでいってしまう。おいていかれかけることもしばしば。
最初は歩く速度を合わせてくれたのに。手をつないで歩く恋人たちを見てユリはうつむいた。最近は出かけても手をつないでくれることは少なくなった。今は時々ユリから手を取るばかり。
一緒に住んでからは恋人らしさがなくなったような気がする。きっとこれは多くの人が経験していることだろう。よくそういう類の記事がネットニュースの下の方に出てくる。
(落ち込まないけど……。落ち込まないけど……! いいなぁ、若い恋人って)
自身も若いが、人のことをそう言うのが癖になっていた。雪華に聞かれたら怒られそうだ。
恋人や家族連れなど幸せそうな人たちはさておき、ユリは今回の目的地へ向かった。
家出してから、あれも持ってくればよかったという物がちらほらと出てくる。本などの娯楽品、筆記用具、スケッチブックなど。こだわりたいものもあるので、大きなモールで探したかった。
スタスタと人混みをよけて歩いて行く。大型家具屋のテナントの前を通り過ぎようとしたら、家族連れが店頭にかたまっていた。
父親がカートを押し、そのそばで子どもが暇そうに”ねぇーまだぁー?”と足に絡みついている。母親は何種類もあるクッションをさわったり見比べていた。
その姿に雅史のことを思い出す。
彼も長いこと”うーん”と言いながら迷う。これを買うと自宅で決めていたくせに、店に行くと”やっぱり今日はやめておく”とその場を後にする。
目当ての商品の前でうなっていると店員に声をかけられ、説明を受けることも度々。
そのそばで説明を聞き流しているユリは店員のことを哀れむ。こやつに熱心に語っても、結局は自分の考えでしか動きませんよ、と。
その場面を思い出し、ふふっと笑った。彼のことで笑ったのは随分久しぶりだった。
(私にも、こんな風になる日がくるのかな……)
ユリは家族連れを横目に、家具屋の隣にある本屋へ入った。
彼女はイラストを描くのが好きで、スケッチブックにもこだわりがある。スケッチブックと鉛筆を買いつつ、本を買うつもりだ。
雅史に趣味のことを話したら、”グッズを出したらいいじゃん”と褒められたことがある。
『グッズ?』
『こっちの方は年に何度か、ハンドメイドの大規模なイベントが行わるんだって。職場の人が言ってた。その人の友だちが毎年イベントに出店してて、レジン? でアクセサリーを作って売ってる、って言ってた』
ハンドメイドのイベント。存在は知っていたが、自分が出る側になろうと思ったことはない。
雅史はユリの才能を認めてくれ、なぜか世に出すことを押してきた。
『自作のイラストのグッズ……。ポストカードとかシールとか?』
『そうそう。業者の目に留まって商品化した人も中にはいるってよ』
ユリはA5サイズのスケッチブックを手に取ると、表紙をめくった。中の紙の適度な厚みとデコボコ。鉛筆で陰影が表現しやすそうだ。
「ママー!」
突然、背中で響いた泣き声に肩が跳ねあがる。ユリはスケッチブックを棚に戻すと、勢いよく振り返った。
文房具コーナーの後ろには絵本のコーナーがある。仕掛けがある絵本、ぬいぐるみがセットになった絵本、今話題の絵本などがピックアップされている。
その前で泣いているのは小さな男の子。花梨より大きく見えるが、まだまだ甘えたいさかりだろう。母親を探しているのか泣きじゃくっていた。
周りに親らしき人物はいない。ユリは彼に駆け寄ると、そばにしゃがみ込んだ。
「どうしたの? ママとはぐれちゃったの?」
男の子は真っ赤な目でしゃくりあげるとこくんとうなずき、ユリの首に腕を回した。
その姿に母性がくすぐられたのか、胸がキュンとなる。
よしよしと頭をなで、そっと抱きしめ返す。そのまま抱え上げると、一緒に本屋を回り始めた。
絵本コーナーから雑誌のコーナーへ行くと、男の子の母親に声をかけられた。電話をしていていつの間にかはぐれてしまい、探していたそうだ。
「よかったです……。すぐに見つかって」
「すみません、ご親切にありがとうございます」
母親を見つけて安堵したのか、男の子は彼女に向かって腕を伸ばした。そのまま受け渡すと何度もお礼を言われ、男の子には”またね”と手を振られた。
手を振り返すと、腹部に痛みを感じた。突然の痛みに笑顔が消える。男の子が背中を向けた後でよかった。
ユリは脂汗が浮き出るのを感じながら下腹部を押さえ、トイレに駆け込んだ。
生理痛のような痛みに、そういえばまだ来ていないことに気がついた。柏木の家に居候しているので都合がいいが。
そこで気づいたことがあり、ユリは震える手で下腹部をさすった。信じられない、まさか、という表情で。
柏木は車の中でうとうとしていたが、窓ガラスを叩かれる音で覚醒した。ユリが戻ってきたようだ。
「んあ……?」
寝ぼけまなこで外を見ると、助手席側の外に青ざめた表情のユリが立っていた。
鍵を開けると、ゆっくりとドアが開いて彼女が乗りこんだ。
「早くね? 本当に買い物した?」
「いえ……。予定変更です……。」
いつも以上に顔色の悪い百合。視線を合わせようともしない。
とりあえずエンジンをかけて車内をあたためた。
短時間だが寝入っていたようだ。頭がぼんやりしている。
しかし、深刻そうなユリの表情を見ると目が覚めてくるようだった。
「……大丈夫か」
「……分かんないです」
ユリはシートベルトを締めると、そのまま黙りこくってしまった。
しつこく聞くのもはばかったので、柏木は怪訝な顔でギアを入れた。
熱を出して仕事を休むなんて子どもか。自分でツッコんだ柏木は、ベッドの上でおとなしくしていた。額には冷却シート。
久しぶりに熱が出たのだ。最近の忙しさで疲れがどっと出たらしい。
「もー。大丈夫? 仕事に行こうなんてもう考えないでよ」
妻は枕元で笑っていた。先程まで会社に行く、行くなと応酬していた。
「配達が……。荷物が……」
「こんなんじゃちゃんと届けられるか分からないでしょ。今日はおとなしくしてなさい」
その言葉は言われたくなかったが事実だ。柏木はおしだまって眉間にシワを寄せた。
「変なプライドで無理しないの。休む時はしっかり休む!」
「お、おう……」
それには何も言い返せない。まだ若いから平気だと思い込んでいた。
会社での立場が上がると人の体調管理を気にするようになった。体調不良でも仕事に出てくることがないように。
ユリの顔色からただ事ではないと悟ったが、彼女の心の内に踏み入る勇気はなかった。
モールから帰ってくると彼女は二階へ上がり、寝室に閉じこもった。彼女の部屋に押し入るのは気が引けるが、様子が気になるのでドア越しに声をかける。
「……おーい。大丈夫か」
「あんまり……。しばらく寝ます」
「そうか。腹減ったら言えよ」
「ありがとうございます」
ドア越しにくぐもった声が返ってきた。部屋の外に出る気はないらしい。
その日、ユリが部屋から出てくることはなかった。晩御飯を食べようともしなかった。
次の日の朝、柏木は久しぶりに一人で朝食を準備して食べた。一人のリビングは寒い。二月に入ったがまだまだ寒さは牙を剥いている。
ユリは柏木の出勤時間になっても起きてこなかった。彼女のことは心配だが仕事を休むわけにはいかない。
見送る人がいないことに一抹の寂しさを感じながら自宅を後にした。
配達途中で昼を迎え、柏木は駐車場が広いコンビニに入った。ここにはイートインがあるし、トラックで入っても出やすい。
イートインでご飯を食べ、トラックに戻るとユリに電話をかけた。
しかし、彼女が電話に出ることはなかった。配達を再開しても折り返しはない。
相当体調が悪くて起き上がれてないとか────とよぎった。
とりあえず今日は早く帰ろう。柏木は焦る気持ちを抑え、搬入専用の駐車場に入った。
そんな柏木の心情は知らず、ユリは病院にいた。あれほど病院へ行くことを渋っていたのに。
訪れたのは柏木の家から一番近い産婦人科。大通りまで歩き、バスに乗った。一時間に一本しかないので、帰りは無理せずにタクシーを使おうと思っている。
ユリは青白い顔で腹部に手を当て、待合室で呼ばれるのを待った。そして、雪華からおめでたの報告を受けた日のことを思い出していた。あの日はカフェでお茶をしていた。
まだ妊娠が分かったばかりでどうなるか分からないけど……と雪華は言っていた。美晴以外ではまだユリしか知らない、とも。
『えー! お母さんたちよりも早く聞いちゃっていいの!?』
『いいのいいの。ユリは親友だもん』
『そっか~……。おめでとう! 身体、大事にしてね』
ユリは目を輝かせて雪華の腹部を見つめた。
彼女によると、ずっと狂っていなかった生理が来なくてまさか、と発覚したらしい。
『そうなんだ……。どう、赤ちゃんができたのって』
『こうなる前まで他人事みたいに思ってたけど、いざ授かると嬉しい。痛いのは怖いけどね……」
『なんだっけ、鼻からスイカ?』
『そうそう。当事者となると恐怖でしかないわ……』
聞いただけで死にそうな痛み。雪華は経験したくないね、と苦笑いしていたが目の奥は覚悟を決めている。強い力を秘めた光が宿っていた。
『ユリはどう? 雅史さんと結婚するなら子どもほしい?』
『結婚かー子どもかー。考えたことないからなんとも』
『そういうのなし。今考えて』
遮るように言われて"えぇ~……"と、ほんのり頬を染めて膝をくっつけた。
『結婚できたらいいなぁ……。一緒にいて楽しいし、落ち着くもん。でも、子どもはどうだろうな……。今は強く望んではないかな』
『結婚したいんだ、やっぱり。雅史さんもユリのこと相当好きみたいだしいけんじゃない? でも二人の子どもは想像できないかも……』
『やっぱり? 私が二人でいるのが好きだからかな……。お金かけて痛い思いしてまでほしいとは思ってない』
それは本心だ。だが、もし本当に子どもを授かったら。まだ婚約中で同棲を始めたばかり。しかし今は別居中。
産むのか産まないのか────。
込み上げてくる吐き気と同時に涙が頬を伝った。
ユリから連絡が入ったのは、配送を終えて会社に戻ってきた頃だった。自分は大丈夫、病院にも行った、とメッセージが入っていた。
安堵して事務所へ行くと、長谷川が送り状と伝票をセットにして並べていた。
「お疲れさーん」
「おかえり。お疲れ様」
「手伝う? まだ載せる荷物ないから」
「お願い」
破らないようにね、と長谷川に送り状の束を渡されたのでミシン目に沿って切っていく。
「便利だよなー。手書きの頃に比べたら」
「ね。手書きだと力強く書かないと下の紙まで写らないから、腱鞘炎になりそうだった」
「機械様様だな」
単純な作業だったので雑談が始まる。
柏木はユリの名前を出さないように、休日の彼女のことを話した。やはり母親である長谷川には頼ってしまう。
「子どもが急に……風邪でもないのに寝込んだら何かあった、とかかな?」
「藪から棒にどうしたの?」
「いや、まぁ……。昨日見たドラマで気になって……」
「柏木君ってドラマ見るんだ。意外」
「あ、ま、まぁな! 学園モノ! 一回見たらハマっちゃったんだよ~…」
「ふーん……」
変に疑われるのは予想の範囲内。しかし、長谷川はそれ以上ツッコむことはせず首を回した。しばらく下を見ていたので首がキテるらしい。
「子どもが勝手に寝に行った時ねぇ~……。ウチの場合はいじけてる時だね。それかつらいことがあった時」
「つらいこと────」
ユリは柏木の家に転がり込んできたばかりの日、泣いていた。何かをきっかけに、再び悲しみがどっとあふれてきたとか。
柏木もそうだった。妻と別れたばかりの直後はなんのダメージもなかった。嫌気がさしてきた存在がいなくなって清々していたくらいだ。
だが、時間が経つにつれ、何かする度に妻が一緒にいた時のことを思い出しては心が沈んでいった。
食事をする時、買い物へ行った時、仕事へ行く時に靴を履いた時。
もう一緒にいてくれることも、見送ってくれることもない。
そう自覚した時、出勤前だというのに玄関に座り込んで目元を押さえることがあった。
妻と出会ってから結婚して別れるまでの記憶が走馬灯のように流れていく。今まで感じたことのない後悔の念が湧き上がってきたものだ。
「……ねぇ、聞いてる? 柏木君?」
「あ、ごめん……」
「どうしたの。子どものこと聞いたりボーッとしたり。なんかあった? もしかして隠し子?」
「バカヤロー。ンなワケあるか。……そういう時はなんて声かけてんの?」
長谷川の軽口に舌打ちまじりの笑いを返した。
「何も。とりあえずほっとく。子どもから打ち明けてきたら話を聞く」
「なるほど」
「本当にどうしたの? この前もこんなこと聞いてきたわよね」
柏木は最後の伝票を切り取ると、”戻るわ”と長谷川の横に置いた。
帰ったらとりあえずユリの様子を見よう。彼女と話をしよう。
晩御飯ができると、玄関のドアに鍵を差し込む音がした。柏木が帰ってきたようだ。
ユリは洗った手をタオルで拭き、味噌汁をお椀に盛り付けた。
「おかえりなさい」
「ただいまー。……元気っぽいな」
「昨日サボっちゃったので」
「無理するなよ」
手洗いしたり作業着を脱いだりと、身支度をした柏木がリビングに来たところで食事が始まった。
いつもより柏木がソワソワして見えたのは、ユリの思い込みだろうか。
「今日病院に……」
「お、おう!?」
「すみません、びっくりしました?」
「いや……。続けてくれ」
「とりあえず病院に行ってきたんですけども────やっぱりストレスですって。ストレス貯めすぎだバカヤローみたいな」
「そうか……」
心なしか柏木が安堵の表情を浮かべたように見えた。
「ウチにはいつまでいてくれてもいいから。ストレス発散できるまで。こんな田舎じゃ何もおもしろいこともないし、堂々と出かけに連れていけないけど」
「ありがとうございます……。むしろ田舎なのがいいんですよ。私に都会暮らしは向かないらしいです。こっちに帰ってきてからイライラすることもないし」
「それならいいけど」
ズズっと味噌汁をすすった柏木は、自分で言ったことに時間差で驚いた。
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