47人が本棚に入れています
本棚に追加1
都会のカフェの一角。大きな広場に面したテラス席に降り注ぐ穏やかな日差しは朝晩の寒さを忘れさせる。
巨大な駅とデッキでつながった広場は観光客の多さの割りに狭苦しさを感じない。その下の芝生広場では子どもが駆け回ったり大学生がモルックで盛り上がっていた。
広場を囲う木の中には梅がつぼみを綻ばせ、都会でも緑が多いことに驚かされる。早咲きの梅は通りすがる人たちの目を楽しませていた。
(発祥は北欧……)
ユリは食後のカフェラテを片手にスマホを眺めていた。検索画面を閉じると写真アプリを開いて数ヶ月前にさかのぼる。
『クマちゃんがお嫁さんに行っちゃうのか~……』
『本当にお世話になりました……。なんだか寂しくなるな……』
『そんなの新婚の幸せを味わえばすぐ忘れちゃいますよ』
結婚しようと言われ、彼氏の転勤と同時に一緒に暮らすようになった。
しかし、寿退職をする直前が一番幸せだったかもしれない。ユリは送別会の写真を見返しながらため息をついた。
今日は日曜日。好きでも毎日婚約者と顔を合わせるのに耐えられなくなったユリは一人で街に出た。
大好きな人と一緒にいられるのは楽しいことばかりではない。考え方の違いで折り合いがつかないことが多々ある。
『ねぇ雅史……。大人でしょ? お風呂入らないのはダメだよ……。周りの人も気にするよ』
『でも疲れたから……』
『……せめて朝シャワー浴びなよ』
『どうかな……。そんなに早く起きられないよ』
婚約者は晩御飯を終えるとスマホ片手にベッドに突っ伏し、そのまま朝を迎える……なんてことがしょっちゅう。ダブルベッドなのにユリが寝るスペースを確保できず、床で寝ることもしばしば。週に何度シーツを洗わされることか。
引っ越して早々、単発のバイトをこなすユリは遅寝早起きの生活。雅史は平日の夜からワイン一瓶を空け、歯磨きもせずベッドに沈むので寝室の空気は酒臭さで満たされる。
彼の生活習慣について小言が絶えず、その度にきれいさっぱり解決できていたわけではない。もういっそのこと別れてしまえば、と抑え込んでいるストレスは爆発寸前。どちらが年上なのだろうと頭を抱えるだけならまだしも、近頃は体調にも影響を及ぼしていた。
Xデーは今日。ユリは愛の巣で足音と目くじらを立てていた。
今は購入しないと決めていたはずのダイニングテーブル。その上には無造作にスマホが置かれている。買って組み立てた本人は疲れたのか子どものようにリビングで寝こけていた。
休日になると「日頃の疲れが出たみたい」と昼間からベッドで寝転がるくせに、こういう元気だけは無駄に備わっている。
『今は狭い家だからローテーブルだけで十分だよ』
『うん、でも……』
『雅史。帰るよ』
先日家具屋へ下見に訪れた際、婚約者が「ダイニングテーブルと椅子が欲しい」と言い出した。
置こうと思えば置けるが狭さが際立つ。ダイニングはほぼ無いに等しいというのに。二人で1LDKというのも無理があるが、購入したマンションが完成するまでの辛抱だ。
『今買ったら引っ越す時に大変じゃん』
『それが業者の仕事なんだから。気にすることないよ』
(あんな冷たいこと言う人だったっけ……)
ユリはぶつかったフリで雅史の足を蹴り、狭くなったリビングを飛び出た。
いっつもいっつも。自分ばかり我慢しなきゃならない。
優柔不断で一つの物事を決めるのに時間を要し、部屋の中をうろうろすることも多い。独り言にアドバイスをしても右から左な様子にイライラが募るばかり。地元で付き合っている頃はこんな人だと悟ることが一切できなかった。
『雅史、玄関の電気消してー』
『え、そのままでいいよ』
『出かけるんだから消してよ』
『帰って来た時に明るいといいかなって』
『電気代がもったいない……』
言い合いをすると雅史は自分は悪くない、というニュアンスの屁理屈を並べるので文字通り火に油を注がれる。
『ユリが転ばないようにって気を遣ったの』
『帰ってきてすぐに電気つけたらいい話ですけど。どいて、消すから』
ユリは寝室のドアを乱暴に開けるとキャリーケースを床に転がした。何度も激しい音が響いたが雅史が様子を覗く気配はない。
絶賛求職中だが条件に合う仕事がなかなか見つからない。焦りを覚えていたが今はそれでよかったと思える。
彼女は必要最低限の荷物をまとめると家を飛び出した。
陽が落ちると家から漏れ出る灯りや車のライトが頼りだ。
男はくわえ煙草でハンドルを握り、竹林に挟まれたアスファルトを駆けていた。グレーのつなぎ姿、無造作な短髪は最近カットしたばかり。
十年以上共にしている愛車は当時、キャンプをする家族のCMが打たれていて一部の間で人気だった。本来は山や海など大自然が似合うだろうが、いつしか職場と自宅の往復でしか乗らなくなった。
冬でも青々とした竹林を抜けると戸建てが立ち並ぶエリアに差し掛かる。
昔はポツリポツリと建っていたが、ここ数年で周りに仲間が増えてメゾネットも新たに加わった。比較的新しく見える家の庭には子どもの遊具が設置されている。
「ん?」
男はバックミラー越しに見えた黒いかたまりに目を細めた。
彼の家は車を停めるスペースが二台分ある。ど真ん中に一発でバック駐車を決めるとエンジンを切るなり運転席から飛び降りた。
猫にしては大きい、熊が現れるにしては山が遠すぎる。しかし、近頃のニュースの見出しを思い出して背中に嫌な汗が伝った。
「柏木さん……お久しぶりです」
「……は? クマちゃん? お嬢?」
くわえていた煙草がコンクリートの地面に転がった。
自宅の門扉前でうずくまっていたのは三ヶ月前まで一緒に働いていた若い女。通称『お嬢』こと熊は熊でも熊谷ユリ、27歳。
庭の遅咲きの梅は突然の訪問者を守るように枝を大きく広げていた。
「あ、お疲れ様です……」
彼女は顔を上げると力なく声を発した。真っ黒なダウンは首の上までジッパーを上げている。
数ヵ月前に笑顔で職場を去ったとは思えない疲れ切った顔。以前よりふっくらしたように見えるが幸せとは正反対のオーラがまとわりついている。このまま逢魔が時にさらわれてしまいそうな。
「お疲れ────いや、そうじゃないだろ。都会に行ったヤツが何してんだ」
彼は煙草を拾い上げると携帯灰皿へ押し込み、周りに視線を巡らせた。
「他に行くとこ思いつかなくて」
ユリは立ち上がると傍らに置いたキャリーケースの持ち手を引き上げた。
「普通は実家だろ」
「実家は嫌です。狭苦しい」
「じゃあ友だちは?」
「生まれたての子どもがいるから行けるわけないじゃないですか」
「だからってここって……」
柏木は頭をかきむしり、自宅の鍵をポケットから取り出した。ユリは彼の背中に食い下がる。
「柏木さんは一人暮らしで部屋余り放題って言ってたのを思い出したんです。もしもの時はウチに帰ってきていいって言ってくれたじゃないですか。飲み会で」
「飲み会で、って冗談に決まってんだろ……。こんな若い女が見ず知らずじゃなくても男の家に押しかけるんじゃないよ全く」
柏木は盛大にため息をついた。
口ではそう言いつつも追い返すことはできない。一月も終わりに差し掛かり屋外はキンと冷える。見下ろしたユリの顔に血の気がないのが心配だ。
(何時からいるんだよ……)
ユリは大きなキャリーケースを玄関に入れたが土間から上がるには高さがある。「おら貸せ」と持ち手を握った時、彼女の手にふれてしまったが随分冷え切っていた。
「本当にお一人なんですね……」
靴を脱いだユリは物珍しそうに家の中を見渡している。
「そうだよ。もし彼女がいたらどうしてたんだよ」
「ちょっとだけ心配してました。……ちょっとだけ」
ユリは調子に乗ったのかいたずらっぽい笑みを浮かべた。しおれているように見えたがそういう元気はあるらしい。
「強調すんな」
柏木はユリの肩を軽くどつくとリビングに押し込んでエアコンをかけた。
「で? もしもの時ってのが来たのか。その荷物と顔は」
ユリはくっつけた膝の上に手を置くとうつむいた。
リビングにはソファとローテーブルとテレビ。テーブルにはエアコンだのテレビだのリモコンをまとめて置いてある。
柏木は冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出すとそれぞれの前に置いた。並んでソファに腰掛け、蓋をひねりながら本題に入る。
「……男なんてそんなもんだぞ。皆だらしないんだ。あれ見たら分かるだろ」
柏木はペットボトルの中身を三分の一ほど一気に飲み干す。
キッチンのシンク周りにはビールの空き缶や空き瓶が転がる。指定ゴミ袋はゴミ箱にセットせず、広げてそのまま。
「そうは言っても私より歳上ですよ?」
「男の精神年齢なんていくつになっても女より低いモンだ。同じ感覚なんて求めちゃいかん」
「うぇー……」
「で。旦那はこのこと知ってるのか?」
「まだ旦那じゃないし」と彼女は口をとがらせる。
「心配してるぞ。早く帰ってやれよ」
「大丈夫ですよ。一度寝落ちたら朝まで起きないし」
「そういう問題じゃねぇ」
柏木は呆れ顔で作業着のポケットから煙草を取り出した。が、客のことを気にしてテーブルの上に置く。
拗ねた子どもの表情に柏木はどうしたものか……と膝に肘をついた。
一つ屋根の下で男女が二人、不貞行為がどうのこうのと疑われても面倒だ。
「……とりあえず帰れ、駅まで送ってやるから。ネカフェもホテルもあるだろ。突然来られていつまでいるのか分からないのは困る。正直迷惑だよ。親戚でもないってのに……」
「帰っても気まずいだけだし……。ストレスでたまに吐くようになって……。もう私ばっかり我慢したくない……」
とうとうユリが顔を覆って声を震わせた。会社で泣いたところなど見たことがないので柏木はひどく狼狽えた。
彼女は自分の考えを押し通すために泣くタイプではない。頑固だがわがままな面は持っていない。
だからこれは本気の涙だ。悔しさと悲しみと憎しみ。全てが織り交ざった雫が指の隙間からこぼれ落ちる。
「あ~……。悪かったって……。俺の言い方がキツかった……」
柏木は不器用にユリの頭をぽんぽんと叩いた。
話を聞いている限り彼氏はなんの悪気もないようだし、無邪気さすら感じられた。だからこそユリは気持ちをぶつけづらかったのだろう。
怒りをためこんだ結果がこれというわけか……。柏木は一服したい衝動を抑えると手をパンと叩いた。
「ん~……分かった! どうせ俺は仕事でほとんど空けているから好きなだけいろ。呑みの場でとは言え、いつでも来いなんて言ったんだし」
「なんか申し訳なくなってきたかも……」
「おいおい……」
彼女も心の片隅では分かっていたのだろう。きまり悪そうな顔でペットボトルを握り締めた。会社でも彼女は何かを頼む時は罪悪感だらけの顔で頭を下げていた。
「……いいよ」
柏木はユリを安心させようと下手くそな笑顔を浮かべた。上目遣いの彼女の目元は赤くなっている。
「その代わり飯は自分でちゃんと食えよ。風呂も寝床も提供するけど、飯だけは自分でやってくれ。見ての通り俺は自炊するような男じゃない」
「分かりました!」
ユリが差し出した手を握り返して成立。その日から奇妙な組み合わせの二人暮らしが始まった。

最初のコメントを投稿しよう!