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仕事から帰ってきた雅史はスーツのままベッドの上に倒れこんだ。ユリがいたら「シワになるよ」とハンガーを持って追いかけてくるだろう。
(簡単に別れようなんて言えないよ……。あっさり別れられるほど安い思い出ばかりじゃない……)
決心したのになぜ、あんな未練を彼女に伝えたのか。冷え切った部屋に身震いした。
約二週間前。「散歩に行く」と断られて一人で大型家具店へ出かけた。以前から購入を迷っていたダイニングテーブルと椅子を買い、ほくほくと帰宅して狭いどころかほぼ無いようなダイニングに広げた。
説明書を読み込んで黙々と組み立て、ここで食卓を囲む画を想像する。ローテーブルでの食事は立ち上がるのが億劫になり、そのままスマホをいじってしまう傾向にある。ユリの代わりに晩御飯の片づけをすることも入浴も面倒になり、結果就寝するのが遅くなってしまう。それが改善されたら彼女の負担も減るだろう。
コンビニで昼ご飯を買ってきてさっそくダイニングテーブルで食べた。達成感とお腹が膨れたことで眠気に誘われ、片づけもそこそこにリビングで寝落ちてしまった。
『……ユリ?』
突然ユリから拒絶され、何も言わずに家出をされてショックだった。ただでさえもぬけの殻の家は寒いというのに、その日は心まで冷たく痛く感じた。
しまう場所がないキャリーケースが消えているのを見つけ、すぐに連絡を入れたが反応はなかった。電話をかけても応答はなく。その日もスマホを下ろしかけた時。
『君は……婚約者さん?』
ユリに連絡を入れたはずだが聞き覚えのない男の声が返ってきた。電話をかける相手を間違えていたのか。スマホから耳を離して画面を見たがそこにはユリの名前。
雅史は警戒心を露わにすると声を硬くした。
『どちらさまですか?』
まさかユリが誘拐されたのでは。事件に巻き込まれたのでは。心臓がバクバクと激しく脈打ち始めたが、相手の男の声が優しくなった。
『急にごめんな。今、お宅の婚約者がウチに押しかけて居座っていてな……。俺は熊谷ユリが働いていた会社に勤めている者だ。彼女がウチの場所を覚えていて家出場所にしやがったんだ。俺も帰れとは言ってるんだがなかなかガンコで……。しばらく帰る気はないらしい。手を焼いているところだ』
『そうだったんですか……』
荒っぽい口調だが声を聞いている限り誠実な人だろうと見受けた。ユリのことを仕方なさそうに語る様子は兄のような、父親のようなあたたかさがにじんでいる。
雅史が安堵すると柏木は「改めて話そう」と自分の電話番号を口にした。
その時から彼にユリの様子を聞いている。まるで観察日記だ。
『病院に行ったらしい。急に元気になりやがった』
『そうですか……よかった』
その日、ユリはもう寝たと電話口で伝えられた。
体調はよくなったが早く眠る日が多くなったらしい。自宅では雅史に合わせて遅い時間に寝て朝も早い。柏木の家でも同じように過ごしているようだ。
『心配で心配で、とかはないのか。仮にも男女が一つ屋根の下で生活しているのに』
『えぇ。ユリのことは信用していますから』
『君なぁ……そこだぞ』
『えっ?』
柏木が呆れたようにため息をついた。腹の底から吐き出す息に威圧感を感じずにはいられない。
『もっと気にかけてやれ。一生一緒にいるんだろ』
『今でも気にかけてるつもりなんですが……。家事は無理しなくていいって事あるごとに伝えています。俺と同じ時間に起きていなくていいし晩御飯だって待ってなくていいし……』
『負担を減らすのも大事だが彼女の気持ちも考えろ。張り切って家中を掃除して返ってきた言葉が「そんなことしなくていい」なんて、人を怒らせるのが趣味か?』
『それは違いますよ、無理しなくていいって意味で』
『おい、まず言い訳を並べるな。他に言うことがあるんじゃないか』
身に覚えがあり過ぎるエピソードだ。ユリがクッションを抱きしめながら口をとがらせる様子が思い浮かぶ。
しかし、雅史に言わせてみればユリが悪いように受け止めているだけだ。特に引っ越してからの彼女はナイーブで、ちょっとやそっとのことで寝室に閉じこもってしまう。
『それと……嫉妬と束縛は時に愛情表現になる』
柏木は絶対にそんな言葉が似合う見た目ではないだろう。雅史は笑いとあくびをかみ殺した。
『柏木さんでもそんなこと言うんですね』
『君の婚約者はウチの会社の大事な娘だ。あんまり雑に扱うから代表として怒ってる』
『うーん……』
いつしかユリが友人を紹介してくれた時、雪華が時々鋭い口調になっていたことを思い出す。誰かにユリのことで怒られるのは二人目だ。
『ねぇ、本当にユリのことを幸せにするつもりあります?』
『いや、まぁ。そういうのは一緒に幸せになるもんだと』
『っ、それはそうですけど建前でも宣言するもんじゃないですか? これからはあなたにユリを守っていってもらうのに、こんな体たらくじゃまかせられるかっての……』
雪華が目を鋭くさせるとユリが隣で「やめてよ」とたしなめていた。
彼女はユリの親友で一児の母だということは聞いていたが、仮にも数度しか会ったことのない相手に凄む様子はまるで嫁入り前の娘を大事に大事に箱にしまいたい父親だ。
『え、えー……あんまりそういうのは言わないタイプなもんだから……』
『社交辞令の一つや二つ、言った方がいい時もありますよ』
あの時の雪華は言葉の端々に、雅史はユリのことを大切にしていないというニュアンスを含んでいた。
『なんか……ユリがそちらでお世話になっている理由がわかります。柏木さんがユリを気遣ってくれているおかげですね』
『悠長なこと言ってんじゃないよ。君がやらなきゃいけないことだからな』
『……今夜は痛いとこばかり突きますね』
柏木は咳こみながら笑った。
電話を終えると狭いダイニングで一人、柏木に言われたことを思い出しながらうなだれる。
好きとか愛してるとか言った覚えはない。ここ数ヵ月は特に。
『ねぇ……どうして助けてくれなかったの?』
『へ?』
いつの日か街中で待ち合わせた時、ユリがナンパされているのを見たことがある。
男二人がかりで声をかけられている彼女はあからさまに迷惑そうに睨みつけているが効果はなし。
『拒絶してるんだから引き下がりましょうよ』
『雅史……』
『君の彼氏? なんか全然タイプ違うね』
ユリと見比べられ、雅史は確かにそうかもと頭をかいた。
彼女はメイクも服装も流行を取り入れているが、雅史はと言うとひと昔前からタンスの中身がほとんど変わらない。
『あはは……ですよね』
『こんななよっちいおじさんといて楽しい?』
『……あんたたちに関係ない』
『じゃあ失礼しますね~』
雅史が手を握って連れ出すとユリは歩きながらその手を振りほどいた。
『……強く出てくれないんだね』
振り向くと道の端で立ち止まったユリが口をとがらせている。
『あそこでトラブルになっても』
『大勢いるところなら相手も下手に暴れないよ、たぶん』
『ユリのそういう勇ましいところは控えないとね』
再び手をつなごうと手を伸ばすが、彼女は一瞥もくれず雅史を避けて先に歩いていってしまった。
その日の夜。柏木の寝室にユリが訪れた。
「どうした。眠れないのか」
「いえ……。少しだけお話したくて」
柏木はスマホをサイドテーブルに置くとベッドの端に並んで座った。ユリは合わせた膝の上で手を重ねている。手首まで覆うもこもこパジャマはこの家で何度洗濯したことだろう。
「自分でもホントにバカだと思うんですけど……。帰りたくなって」
柏木が片眉を上げるとユリは自嘲気味に笑って頬をかいた。
「……結局、ちょっと優しいこと言われたらコロッと今までのこと許しちゃうんですよ。私の恨みは……甘っちょろいんです。幼稚だからちょっとのことですぐにブチッとくるし、ノーアポで柏木さんの家に来ちゃうし……」
「泣くな泣くな! 俺はお嬢が迷惑とか面倒だなんて思ってないから。急にどうした!?」
柏木は背中をさするか迷ってやめた。しゃくり上げたユリの目元はすでに赤く痛々しい。
彼女は胸に手を当てて落ち着かせると再び口を開いた。
「私────流産したんです」
病院へ訪れた日のこと。
順番が来て呼ばれ、診察室に入るといくつか質問を受けた後に検査室へ案内された。
「妊娠……ですね」
画面を見つめる女医は眉をくもらせた。
「え」
「ただ、心音が確認できません」
「────流産、ってことですか………」
ユリのか細い声に女医はうなずいた。
ある時から密かに疑っていた事実。あの時の直感は正しかった。だが、もっと早く動くべきだった。
「吐き気がずっとあったんですが……」
「えぇ。つわりがあるのは順調だととらえられることが多いんですが、皆が皆そうではないんです。逆に順調でもつわりがほとんどないという人もいるんです」
「そうですか……。原因って何が考えられるんですか?」
「この週数だと染色体異常ですね。ストレスも考えられます。環境が大きく変わって精神的に思い詰めることが多かったのかもしれませんね」
知らない間に授かっていた雅史とのつながりを失ったのは、これからの関係を示唆しているのだろうか。こんなのが母親になれるわけない、という暗示かもしれない。突然家出をするような大人なのだから。
いつの間にか手から力が抜け、喪失感だけが心に残った。
次の病院の帰り、ユリは雪華に電話をした。彼女が息を呑んだのが電話越しでも分かった。
彼女の言葉に甘え、ユリは柏木に一言伝えて雪華の家に泊まることにした。彼女と美晴はユリのことを優しく迎え入れた。
「つらかったね……。私もその子に会いたかった」
その日の夜、雪華はユリの頭をなでて眠りにつかせてくれた。
夫婦は「好きなだけ泊まっていけばいい、おじさんの家から荷物を持ってきなよ」と車を出そうとしたが、それ以上甘えることはしなかった。
「本当に大丈夫なの……?」
「うん。柏木さんもよくしてくれるし」
「そうじゃなくて……」
「────赤ちゃんのことなら平気」
雅史から連絡が来た時、小さな命を呆気なく失ってしまったことに初めて実感が湧いた。
会うことが叶わなかった命だけでなく、雅史も失っていいのか。
彼に今すぐ抱きしめてほしい。泣いて謝って、あの家に帰りたい。
柏木は黙り、哀愁を帯びた目でユリのことを見つめていた。
「バカでしょう……。私は雅史の言動で痛い目を見てるのに帰りたいってほざいているんですよ」
ユリは涙を浮かべたままの瞳で笑ってみせた。
「いや。俺はそうは思わん」
「え?」
目を丸くしたユリをよそに柏木は後ろ手をついた。
「バカなんて思ってねぇ……。お嬢は強い女だ。けど、もう無理しなくていい」
ユリは顔をうつむかせると再び泣いた。こんなに声を上げて泣いたのはいつぶりだろう。
隣にいるのが雅史だったら。涙だろうが鼻水だろうが流していても構わず飛びつけるのに。
この思いは雅史に慰めてほしい。心の底でユリは柏木に謝った。
柏木は静かにユリの頭に手を置いた。
また一人、女を大切にできなかった。やはり最初の時点で強引にでも病院へ連れていけばよかった。今は泣き疲れたのか柏木の肩にもたれかかって眠っている。
彼女を寝室に運んで布団を掛け、すでにセットしてあった目覚ましのスイッチを切っておく。
彼もベッドにもぐりこんだが寝付けなかった。

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