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溶けかかっていた雪女
書店の前に、汗だくの女の子が立っていた。
今は一月。ここはもちろん日本だ。
確かに真冬にしてはあったかく、太陽もそろそろ真上に差しかかる時間だったが、それにしても他の通行人はきっちりと防寒着を羽織っている。僕だって着ているダウンジャケットを脱ぎたい気持ちにはとてもならない。
それなのにその女の子は、白いTシャツにジーンズという夏の装いで、その娘の周りだけ真夏なのかというように、顔と腋の下を汗でびしょびしょにしているのだった。
気分が悪いのかな? 声をかけようかな? とは思ったが、他の誰かがやってくれるだろうと思い、書店の中へ入った。
「あった、あった」
今日発売のオカルト雑誌『モー』が棚にさしてあるのを抜き出すと、僕はレジへ向かった。
幽霊、宇宙人、UMA、妖怪──僕がこの世で興味があるのはこれらだけだ。
さっきの汗だくの女の子は女優さんみたいに綺麗だったけど、僕は女の子に興味がない。っていうか、人間に興味がないのだ。むしろ、人間が、きらいだ。
さぁ、今日は休日。すぐにアパートの部屋に帰ってこれを読んで楽しく過ごそう。
そう思いながら書店を出て、僕はびっくりした。
さっきの女の子がまだそこにいた。
溶けかけの雪だるまみたいに、ちっちゃくなってた。
目はほとんど黒い線みたいになってて、表情はもう力が抜けきっていて、地熱に吸われるようにじわじわと、今にもアスファルトの上の染みになりそうだった。
「だ、大丈夫か!?」
僕は思わず声をかけていた。
「君……、雪女なのか!?」
「た……、助けてくだひゃい……」
雪に空いた穴みたいにちいさくなっている口を動かし、彼女は言った。
「暑いです……。人間界って、なぜ、こんなに暑いのでしょう……」
意識が朦朧としているようだ。
通行人たちは遠巻きにチラッと見て通り過ぎていくだけだ。どうやら気味悪がっているらしい。
「僕の部屋へおいで!」
てのひらに乗るぐらいちいさくなっている彼女を持ち上げると、太陽の光から守りながら、駆け足で僕はじぶんのアパートへ持って帰った。
△ △ △
帰るとまず、彼女を冷蔵庫の中へ入れた。
クーラーをつける。
冷凍庫から氷を取り出し、洗面器に張った水に浮かべる。
冷蔵庫を開けて確認すると彼女が少し大きさを取り戻していたので、取り出して洗面器に移す。
じわじわと彼女が人間大まで戻り、生気を吹き返した。
「はあ〜……」
温泉にでも浸かっているような、うっとりとした声を彼女が漏らす。
そして、ちょっとドキッとするような色っぽい目をこちらに向けると、真紅の唇を動かして、言った。
「ありがとうございます。助かりました」
僕はドキドキしていた。ワクワクしていた。
興奮気味の声で、彼女に聞いた。
「君……、人間じゃないよね?」
「あっ……。はい!」
もじもじとうつむきながら、彼女が答える。
「ほんとうは……明かしてはいけないんですけど……。そうです、わたしは人間ではありません」
「雪女?」
「はい」
僕は思わずガッツポーズをキメていた。
夢だった。人間ではない未知の存在と出会う夢が、今叶った。
冷たいオレンジジュースをふるまうと、彼女は嬉しそうに小さな口をコップにつけて、美味しそうに飲む。
「なんで人間界にやって来たの?」
ワクワクしながら僕は聞いた。
「あっ、見ます?」
そう言って彼女がてのひらを広げると、そこに霜が生まれ、スマートフォンの形になった。
画面に光が灯り、一枚の写真を表示する。
それはとても豪華なパフェの写真だった。
「……これは?」
「ベリーベリー・パフェですよ。くすっ」
そんなことも知らないの? と言いたげに、彼女が説明する。
「これを食べるのが私、夢だったんです。母が北方領土へ長い出張に出かけたので、これを好機と人間界へ出てきたんですが……」
「暑くて溶けそうになってたんだね?」
「まさか、人間界がこんなに暑いとは……。冬は私たちの季節ですのに、死にそうになってしまいました」
「写真撮ってもいい?」
僕がスマホのカメラを向けると、彼女がサッとポーズを作り、無言でアイドルのように笑顔になる。
やったぞ! 雪女の写真を収めた! そう思ったけど、撮影したものを見ると、それはふつうの綺麗な女の子でしかない。雪女らしさがちっともなかった。
「なんか妖力使ってるところの写真撮らせてよ」
「あっ……。それはダメです。雪女は人間に存在を明かしてはいけないものなので……」
「もう僕にバレてるじゃん?」
「あっ、そうですね。……くすっ」
綺麗な笑顔がほんとうに芸能人みたいだ。
「不思議です。命の恩人とはいえ、あなたにはなんでも話せてしまえます」
そう言ってもらえる僕のほうこそ不思議だった。
僕はコミュ障だ。他人と会話なんてまともにできたためしがない。
それなのに、彼女とはスラスラと話ができてしまうのだった。緊張もしないし、逃げたくもならない。
きっと彼女が人間ではないからなんだろうと思っていた。
「私、蒼井ふぶきっていいます」
彼女に名乗られて、僕も名乗らないわけにいかなかった。
「僕は……末代良ケンです」
ずっとこの名前を笑われてきた。
陰キャにこんなサンバの似合う名前、相当似合わないとじぶんでもわかってる。中学の時はいじめの原因にもなった。
いつも自己紹介するのが苦痛だ。親を恨んでる。そのうち改名しようと思ってる。
しかし蒼井さんは、面白がるようにではなく、爽やかに微笑んでくれた。
「いいお名前ですね」
心からのように、そう言ってくれた。
きっと松平健を知らないのだろう。
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