鳥の眼

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 遠くに雨の匂いがする。ひときわ高く下枝のない樹木から一羽の鳥が滑空した。薄灰色の羽を持つシャープな姿形の鳥だった。烏よりは少し小柄である。鳥はほとんど羽ばたくことなく、すぐ下にこんもりと枝葉を張った樹木の枝の一つに飛び移った。広葉樹に隠れて鳥の姿はほとんど見えなくなった。  鳥は気づかなかったが、そこから三メートルほど離れた木製の古びた背付きのベンチにいた女は鳥の動きを眼で追っていた。姿が見えなくなると少し溜息をついて再び横に腰かけた男の方を見やった。 「宍戸さん、いや、絵美さん」  男は三十代の手前くらいだろうか。平静を装った声が微かに戦いている。 「バラ園、素敵でしたね」  即座に言葉を返した女は、自覚している以上に下意識で男の言葉を遮りたい思いに駆られていた。バラ園のバラは確かに美しかった。赤や黄やオレンジやピンク、それらがまた意趣に富んだ濃淡を持っていた。そして姿形もさることながら、入り混じった香りはむせるほどであったのだ。  男は女の気持ちを図ろうとしつつ言葉を継いだ。 「ここのバラ園は特に奇を衒ったようなところはないけれど、花の一つ一つをゆっくりと観賞できるのがいいところなんだ」 「そうね。名前を覚えるのが大変だったもの」  女の返事は素っ気ない。鳥は広葉樹の枝を飛び立って少しくベンチの二人の前を横切り、左手の熊手のような大きな葉のついた樹木の枝に移動した。女は何かを思案しているようだったがその姿は視界の端にとらえていた。 「ここは風の通りがいいですね」  つぶやくように女が言った。バラ園を出てソフトクリームなどの売っている小さな売店の横を通り過ぎたときから思っていた。低い位置に成形されたバラ園の中では気が付かないが、一歩あがると一陣の心地よい風が吹き抜けた。湿り気で少し重みがあるが、女の緊張をほぐすには十分だった。息苦しささえ感じていた籠るようなバラの匂いを一気に振り払ってくれた。  鳥は熊手のかたちの大きな葉に守られて忙しそうに毛づくろいをしている。ぱさぱさとした葉擦れの音さえ響いてくるようだ。女の心はすでに鳥の観察からは離れている。鳥の眼には、女が心なし男との距離を空けているさまが映った。鳥にとってはどうでもよいことだ。鳥は樹下に入る人間たちを恐れる理由は何もない。武蔵野の面影を残すこの雑木林の道は保護樹林だ。鳥に危害を加えるような人間はいない。そのことを鳥は知り尽くしている。  男は女のクリーム色のパンツの尻の辺りが気になって仕方がない。それは下卑た下心というのではなく、昨日の雨の湿り気がまだベンチに残っていることを、男自身が腰かけたときに気が付いたからだ。女は平然とそこに尻をのせているが、薄い色のパンツに染みなどできてはいないだろうか。男は奇妙にそれが気にかかっている。  男のそんな心配はどこ吹く風で、女は桜色の自分の爪をいじっている。他にどうしたらいいのかが思いつかないからだ。この場所に誘ったのは男の方だった。二人の勤める会社からそう遠くはない神代植物公園。あまりにぎにぎしい場所はふさわしくないように男には思われた。男は終始落ち着かぬ様子で女の顔色ばかり窺っている。男が自分をここに誘いだした意味をまったく察していない訳でもないであろうに、女は意地悪く気のない返事ばかりを繰り返している。もちろん樹上の鳥にとってはそんな事情はまるで別世界のことであって、ただ木のうろにいる小さな虫をつつくことに夢中になっている。  遠くから賑やかな若い男女の声が響いてきた。いかにも楽し気に腕を組んで歩いてくる。 「おそば屋さんはこの先なんでしょう」  屈託ない若い女の問いに男が笑いつつ答える。 「おそばの前に、深大寺のお参りをしないと」 「深大寺」 「植物公園とは別にお寺があるんだよ。けっこう古い、古刹っていうの。せっかくだからお参りしようよ」 「おそば屋さんは」 「深大寺の前にたくさんお店がある。なかなかいいところだよ。口コミもばっちり調べたから」 「へえ、それは期待」  終始弾んだ会話を交わして速足で通り過ぎていくカップルはベンチの男女には目もくれなかった。彼らにとってはここはただの、深大寺への通り道でしかないのだ。  ベンチの女は溜息をついた。隣の男の肩が微かに揺らぐ。彼女を退屈させてしまっているのかという不安が男を襲っている。  鳥は腹を満たして再び高い樹に飛び移った。軽やかに。広げた羽の残影が女の目に残った。  女は再び溜息を洩らした。男はいたたまれない思いに取りつかれながらも次の言葉が出ない。  再び風が来た。先ほどよりも重い湿りを帯びた風だった。樹間に仰ぎ見る空はけっして水色ではない。薄灰色でところどころが残照のように輝いている。男にはそれがまるで自分の不甲斐なさをなじるもののように感じられた。女はその風を胸いっぱいに吸いこんで軽く目を瞑る。 「ここはいい場所ですね」  とうとう女は口を開いた。男は最初何が言われているのか分からなかった。 「雑木林がこんなに気持ちのよい場所だとは私は今まで知りませんでした。しっかりと呼吸ができる場所ですね」  鳥が高い場所で一声甲高く鳴いた。およそ人間の耳には快くはない声だった。男はまだ迷っている。女はまた溜息をついて、男に顔を向けた。 「三島さん、私に何か言いたいことがあるのですよね」  男は羞恥心で足の力が抜けてしまった。  女は意志の強そうなしっかり者の表情のまま、男を見つめる。直属の上司である男は会社にいるときとは打って変わって力の弱さを隠しようもなくなっていた。 「宍戸さん」 「絵美さんでかまいませんよ」 「絵美さん」 樹上の鳥は急降下して下草の繁る地面に降りた。 「好きです」  男の色黒の顔がみるみると赤く染まった。そこまで正直な色の変化を見ているうちに、女の気持ちはおのずと決まってしまった。女は黙ってゆっくりと頭を下げた。男はまだよく状況が呑み込めないような様子で、綿のジャケットのポケットを探り始める。そしてうまく指が動かないのか、小さな箱を地面に取り落とした。下草の中を漁っていた鳥はまた飛び立つ。 「鳥が驚いてる」  女は笑う。今日出会ってから初めての、心のこもった笑顔だった。  細く輝くシルバーの指輪はなぜかこの森の色にも、今日の空の色にもよく合っているように女には思われた。 「そろそろ行きましょうか」  指輪をして満足げに女が言う。 「どこへ」 「何言ってるんです。おそばを食べたい。ここに来たら食べるべきでしょ」  鳥は雨が来たことを悟った。木陰に避難しよう。急に強い風がきて、ぱらぱらと雨粒が落ちてきた。  鳥は枝の合間から、一つの傘に肩を寄せ合って歩いていく男と女を見た。  深大寺は縁結びの寺。二人はその門をくぐったが、そんなことは鳥には関係のないことだった。
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