ひとつの魔法

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 一九六八年五月。昭は母親の生まれ故郷へと引っ越した。十五年生まれ育った東京の中心市街地から西へ六十キロ、電車やタクシーに揺られれば山の麓にある小さな村に辿り着く。簡素な門の前には婦人が一人立っていた。昭は一足先にタクシーを降り、運転手が荷物を下ろしている間に母の手を引いて婦人に挨拶した。 「叔母様、お久しぶりです」 「お帰りなさい。二人共元気そうで良かった」  叔母は自分の妹である昭の母親と昭に強い抱擁をし、運転手から妹の荷物を受け取って歩き始めた。最近はどうか、長男や長女は元気そうかと他愛ない話だ。母親も十八まで住んでいた村の道をよく覚えており、足取りは迷うことがない。二人の後をついて行く昭はたまにある大きな泥濘に足を取られて眼鏡を鼻から落としていたが。  村は西側が山、全体は林に囲まれているが、林のぎりぎりまで続く農地と田んぼで閉塞感はなかった。もちろん役場やら店やらが並ぶ村の中心はそれなりに建物と電柱が立ち並んでいるのだが、中心街で育った昭にはこじんまりした村という印象だ。  母親の顔に見覚えがある人や親子の都会らしい洒落たワンピースやシャツに目を向けた人が次々と声を掛けてくるもので、挨拶回りは叔母の家に着くより先に終わりそうな勢いだった。拍車をかけるように叔母は店の奥の人にも声を掛け、妹とその息子が帰って来たことを伝えて回っている。夕方で人が多いこともあり母親と昭は何度も会釈したもので、村の中心から出た時には二人はすっかり目が回っていた。  鳥の鳴き声と鍬が土に刺さる音だけの畑を抜けて叔母の家に辿り着くと、荷物が置かれる音と共に力が抜けた昭は框で靴を脱いだきり座り込む。 「母様、挨拶回りってさっきので終わったんじゃないの」 「ほとんど終わってるでしょうね。ねえ、姉さん」 「あとは西の方を回れば終わりよ。少しだから今日回っちゃいましょ」  ええ、と昭が内心肩を落とす間もなく、玄関扉がこんこんと叩かれた。昭が急いで立ち上がる脇を母親がはい、と返事しながら扉を開ける。訪ねてきたのは母親の古い知り合いで、二人は顔を見合わせて再会を喜んだ。いくつか互いの近況を交わし、母親がこれから西の家を回ると言えば婦人は思い出したように手を叩いて一度昭を見た。 「そうそう。公園奥に貸本屋があったでしょう、ほら、松本さんの家。あそこ、旦那さんが戦争で亡くなって奥さんが店を継いでたでしょ? 奥さんも三年前に亡くなっちゃってね」 「利子さんが? それじゃあもう空き家になってるの」 「それがね、亡くなる少し前から子供が店番してたのよ。昭君と同い年くらいの子。親が亡くなった子を引き取ったとかで……ちょっと変わって見えるけど……凄く礼儀正しい良い子でね、今はその子が店を継いでるの」 「貸本屋って、どんな本があるんですか」  昭が目を輝かせて聞けば、婦人は首を捻った。 「もうずっと新しい本を仕入れてないらしいから、新しいのは無いわよ。特に魔法の本はね」  がっかりするだろうと婦人は少し目を伏せたが、昭がまだ嬉しそうな顔をして玄関向こうの西の方を見るもので、今ならまだ開いてると教えてくれた。昭は今日一番嬉しそうに、母親の負担にならない程度に早足で西へと向かった。とはいえ貸本屋は村の一番西にあるので道中他の家を回って挨拶し、店が見えたのは街灯に照らされた影と地面が暗くなり始めた頃。最後の家から二百メートルは離れた公園の横で、ガラス戸を開け放したままの建物がそっと佇んでいる。  年期の入った厚紙が貼られており、貸本、とだけ書かれていた。母親はよく踏まれたのだろうへこんでぬかるんだ入り口を懐かしそうに見ながら、そうそうこんな感じだと戸の前に立つ。昭も横に並んで中を覗き込んだ。店の中からはふわりとカビか埃の匂いが香り、その印象のままに古そうな本棚とくすんだ本が並んでいた。土間の四方全てに本棚があるが、入口正面のものだけは幅が壁の半分ほどしかなく、代わりに小さな上り口と、その上に扉の代わりになるほど長い暖簾が垂れている。歯が傷んで硬そうな下駄が揃って置かれており、奥に住人がいることを示していた。 「ごめんください」  昭はかんかん、と揺れるアルミサッシをノックした。 「はぁい」  暖簾の奥からはっきりした若い声が聞こえてすぐ、声の主が顔を見せた。 「いらっしゃー……、あれ、初めて見るお顔ですね」  声の主は確かに昭と同い年ほどに見える少年だった。幼子のように切りそろえられた髪の下で人懐こい笑顔を見せて会釈する。二人も慌てて会釈し返した。 「今日この村に引っ越してきました。佐々木です。こちらは息子の昭」 「はじめまして」 「はじめまして。店主の千尋です」  千尋はすぐに下駄を履いて二人の前に立ったが、この親子は思わず彼の一挙一動をじっくり見てしまった。田舎とはいえ復興も洋装も進んだ昨今、今日会った村の人は大抵シャツや作業着を着ていた。勿論着物の人もいたのだが、千尋はやたら繊細な元禄模様が描かれた上等な着物を着ており、とても古い貸本屋の土間に立つような見目ではなかった。母親の知り合いが千尋のことを、変わって見える、と口滑らしたのも頷ける。  先に我に返った母親は小さく首を振って笑顔を、それから悲しげな表情を見せる。 「私は十八までこの村に住んでおりましたが、前の店主の利子さんに随分お世話になりまして……三年前に亡くなったとお聞きしましたのですが、お線香を上げさせていただいても?」 「ええ。是非お上がりください。散らかっていて申し訳ありませんが」  千尋、母親、最後に昭が座敷に上がり、入って右にあった小さな仏壇に線香を上げた。 「利子さんはご病気で?」 「おそらくは……。私には詳しいことを教えてくださらなかったので。ですが、最後はとても穏やかに笑っていました」  そう言って千尋も静かに笑うので、母親もそれは良かったと笑い返し、遅くならない内にとすぐ土間に戻った。外は少しずつ暗さを強めており、土間の向こうの床だけが四角く照らされている。 「今日は越してきた挨拶にと伺いましたので、また今度貸本屋にお邪魔させていただきます。昭も本が好きですので、すぐにお邪魔してしまうと思いますけれど」  昭は名前を呼ばれてはっとした。それまで変わった店主ばかりを見ていたので、そういえばここには本があるのだと思い出して棚に目をやる。見たことの無いものばかりで昭が自然と顔を綻ばせれば、千尋も嬉しそうに笑った。 「本、お好きなんですか」 「はい。前に住んでいたところでもよく本屋や貸本屋に通って……、でも途中から魔法の本ばかりになって、」 「魔法の本なら無いんですよ。申し訳ない」  やけにはっきりと言うもので昭は目を丸くしたが、次の言葉を言うより先に千尋がまたはきはきと喋り出した。 「古い本ばかりですが、良いものも多いですよ。是非また来てください」 「そ、そうさせてもらいます」  二人は千尋に土間の外まで見送られ、離れた民家の明かりを目指して歩いた。が、少しもしない内に昭は足を止めた。 「ねえ、もう少しだけ話してきてもいいかな」 「今日はもう閉めるって言ってたじゃない。明日にしたら」 「本を見たいんじゃなくて、さっき、少し誤解された気がしたから」  すぐに戻るからと、一番近い民家の脇で母親と分かれ、昭は走って貸本屋まで戻った。扉はもう閉まっており、土間の明かりも消したのだろう。暖簾向こうの細い明かりだけがガラス戸を通って頼りなく漏れている。  近付いてみてから、昭はさてどう言い出したものか今悩み始めた。ノックして突然先ほどの会話の続きなど不自然だろう、やはり明日の方が良かったか、ううんと首を捻りながらとりあえずノックしようとした時。微かに声が聞こえた。自分に気が付いたのかと昭は顔を戸に近付けたのだが、もう少しはっきりと聞こえてきたのは独り言だった。 「……、んだ魔法魔法って。商人が来る度に聞きやがって。誰が……」  昭は即座に、これは聞かない方が良かったか、と一歩引いた。しかし丁度ぬかるんだ地面に足を取られ、大きく尻もちをついた。昭は眼鏡が口までずり落ちるよりも先に血の気が引き、そのまま固まってしまう。微かに聞こえていた声が止まると同時に強く座敷を蹴った音が、漏れでる明かりが一瞬大きくなり、土間を踏む音が近付いた。戸が嫌な音を立てながら開けば。 「……」 「……」  暗く、眼鏡を失ってぼやけた視界でも、千尋の顔に先ほどのような笑顔がないことが昭には分かった。 「……いつからいました?」 「つ、ついさっき」 「聞いてました?」  確信している声に嘘は吐けず、昭は頷く。舌打ちが聞こえた。 「どーしてこう……。ああもういいや、お前さ、これ黙っててもらえる?」  昭は何度も瞬きし、うん。と呟いてから、現状がそれほど悪くないことを理解した。少しばかり気が緩んだ独り言を聞いてしまったに過ぎないのだから、そう怯えることでもない。昭はようやく眼鏡を直して千尋の顔を見た。彼は眉間に皺を寄せ、なんでこう、ああ、と地面を見て呻いている。一番嫌そうな表情になれば、そのまま昭の顔を覗き込んだ。 「で? 何か用があったんだろ。なに」 「……あっ」 「あ?」 「あの僕、魔法好きじゃなくて」  千尋の表情が僅かだが目に見えて和らいだので、昭はそのまま続けた。 「さっき誤解されたかと思って。僕魔法があまり好きじゃないから、前に住んでた場所でも魔法の本ばっかりになって、行ける本屋が無くなっちゃったんだ。だからここの貸本屋は良い所だって伝えたかったんだけど、ごめんなさい」 「……いや。わるい、俺も強く言ったかも」  店主の表情から完全に敵意が失せるや否や、今度は昭が勢いで言葉を続けた。 「もしかして、君も魔法を使えないの?」 「……も、ってことは……」  千尋の目が丸く見開かれたので、昭は返事をされたように頷く。途端に千尋は昭の腕を掴んで土間に入った。急に眩しくなった視界に昭は固く目を瞑った。また嗅いだ本の香りにそれほど慌てはせず、ゆっくり目を開ける。 「お前の母親、近くにいるか?」  千尋は肩が触れるほど近くに立っているというのに、だいぶ潜んだ声を出した。 「一番近くの家で待ってくれてる」 「じゃあ、明日だ。明日暇か」 「明日は……午前なら。母様、朝はあまり体調が良くないから。それに越してきたばかりですぐには荷解き出来ないだろうし」  よし。と千尋はどこかを見て頷く。近くで見た千尋の雰囲気はやはり変わっていた。よくよく見れば口調も相まって服に似合った高貴で繊細そうな雰囲気でもない。どちらかといえば野性味も残しているというのに、見目も雰囲気もやたら整っているのだ。 「明日の午前もう一度来い。一人でな。今さっきのことも、魔法のことも誰にも言うなよ」  千尋は昭を土間の外の泥濘まで押し出すと、彼の手に百円玉を二枚握らせた。十五歳で持つには中々の大金なもので昭は慌てて返そうとしたが、ガラス戸が閉まる方が早く、昭がもう一度滑りかけた地面に目を落とした一瞬に低い声だけが残される。 「言ったらそれ、お前に盗まれたことにするからな」
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