人斬り

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 1980年代。  時は日本中の人々を浮かれさせるバブル到来を告げようとしている。  山は屏風のように切り立ち、幾重にも折れ連なっている。高い峰の向こうに姿を見せ始めた太陽が、深い谷に澱む霧を追い立てている。  山を覆う木々。谷に向かう斜面には、わずかばかりの畑が階段のように下っている。その中に点々と佇む民家。どれもが急な斜面から転げ落ちないように地面にしがみ付いている。  首筋に汗を滴らせた男が森を抜けて姿を現した。刀を持ち、段々畑の細い坂道を身のこなしも軽く降りていく。一度足を滑らせれば数十メートルも谷底へ向かって転げ落ちてしまうほどの急斜面である。  風が駆け抜けた。  男の肌を撫ぜて、熱い火照りを拭い去っていく。  鋼のような胸板。盛り上がった両肩。相撲取りやプロレスラーのように太くはないが、硬く締まった筋肉がシャツの下にあった。野生の獣のようにしなやかで強い体であった。  男の名前は勇治。毎朝5時に山に登り、真剣での素振りを千回行うことを日課としていた。土砂降りの日も、冬の雪が高く降り積もる日も決して欠かされることはなかった。  一年前に始めた時は百回の素振りがやっとであった。二日めに両手のマメが潰れ、掌の皮が裂けた。それでも血でぬめる手に刀を縛りつけて行った。  今では千回の素振りも時間をかけずに行える。  そのことに目的はない。  自分の体を痛めつけることが世を捨てた己に課した試練であった。  急な山肌をえぐるようにして造られたわずかばかりの土地に家が建っている。舗装された道が段々畑の間を縫うようにして、谷底からジグザグに這い上がってきている。  勇治は自身が身を寄せる家を目の前にして、ふと足を止めた。  男の怒鳴り声と女の悲鳴を微かに聞いた。  身を低くし、地面を滑るようにして家の正面へと走った。  家の前の猫の額のような空き地一杯を占領するようにして、白いジャガーが停まっていた。フロントガラスに鈍く朝日を跳ね返している。  その車に見覚えがあった。  勇治は刀を持つ左手の親指を鍔に乗せ家の軒下へと走る。そして息を殺して様子を窺った。  不意に家の玄関から若い女が飛び出した。  由紀であった。  続いて体格のいい一見してヤクザとわかる男が二人出てきた。  一人が由紀を捕まえて胸元を掴むと、いきなり腹を蹴り上げた。  鈍い音と共に雪が悲鳴を上げて倒れる。 「勇治はどこだ!」  倒れた由紀に向かって男が怒鳴った。  由紀の下腹部が見る見る赤く染まっていく。  勇治は刀を抜いて走りだしていた。  振り向いた男に右上段から刀を振り下ろす。  ザン! 「うっぎ!」  肩から袈裟懸けに斬られた男は肋骨を断たれ、口から血を吹き出してよろめく。  勇治は刀の切っ先を下げたままもう一人の男の前へと駆けた。  男は背広の中へ手を入れる。拳銃を持っているのであろう。しかし間に合うものではなかった。  真一文字に男の胴を払う。 「ぐわっ!」  苦痛の唸り声をあげ、男は右手を上着の中に入れたまま左手で腹を押さえた。吹き出た血が辺りの地面を染める。  倒れたまま呻き声を上げる由紀に一瞥をくれると、勇治は家の中へと向かった。  ジャガーは組幹部、太田のものである。奴はいる。きっといる。  車は一台。残りは一人か二人か。  薄暗い土間に飛び込んだところで男と鉢合わせした。  男が持っていた拳銃を付き出す。  勇治は身を屈めると同時に刀を振るった。  鈍い音を立てて男の向う脛をえぐる。 「ぐえっ!」  男は声にならない悲鳴を上げてうずくまった。  その首に刀を振り下ろす。  シャッと血しぶきを上げて男の首がぱっくりと割れた。  生暖かいものが勇治の顔に掛かる。  皮一枚で頭をぶら下げた男の体がどさりと崩れ落ちた。 「勇治!」  声に勇治は顔を上げた。  パン!  乾いた銃声が家の中にこだまする。  その瞬間に反応していた。勇治の肉体がしなやかに躍動する、  両手で銃を構え、廊下の先に立つ男がもう一度引き金を絞る。  パン!  勇治の頬を一瞬の衝撃が突き抜ける。しかしそれに怯むはずもなかった。  勇治自身が弾丸となって走る。  上段に振り上げた刀は天井板を打ち破りながら男の脳天へ打ち込まれた。  男の頭を真っ二つに割ったところで刀はぽきりと折れた。  血まみれの白い脳みそをだらしとこぼしながら男はゆっくりと倒れた。
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