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「殺さないんだ」
その言葉に、心臓が大きく跳ねた。ゼロゼロの声が夜の静寂を突き破るように響き、私は一瞬、体が凍りついたように動けなくなった。ふと視線を上げると、ゼロゼロの瞳が暗闇の中で鋭く光り、じっと私を見つめている。開かれたその瞳は、まるで私の心の奥底まで見透かすように真っ直ぐに射抜いていた。
「……何のこと?」
冷静を装おうと、なんとか言葉を搾り出したが、声が震えているのが自分でも分かった。ゼロゼロはそんな私の動揺を見逃さず、じっと無表情のまま見つめ続けている。彼女の視線はまるで鏡のように私を映し出し、その視線に答えを求められている気がして、息が苦しくなった。
「今までに、何度も機会があったよね。それなのに、殺さないんだ」
ゼロゼロは落ち着いた口調で言葉を継ぎ、私の内側に深く食い込んでくるようだった。その言葉に、私は息が詰まるのを感じた。確かに、機会はいくらでもあった。神崎優雅から直接『レベル3を殺せば、すべての咎を帳消しにしてやる』とまで言われている。解放される条件が示された今、私にはその選択肢が目の前にあったのだ。
ゼロゼロの無垢な寝顔を見つめながら、その命を奪うこともできたはずだ。彼女が無防備に目を閉じて眠るとき、刃を胸に突き立てることだって可能だった。それなのに――私はその行為を実行することができなかった。
「……何を、言っているの?」
私は気まずさを紛らわせるために笑ってみせたが、ゼロゼロの瞳は鋭さを失わなかった。冗談を言っているような目ではない。彼女はじっと私を見据え、真剣そのものの表情だった。その瞳には、私への確信が宿っているようにも見えた。
「朱音。あなたは、私を殺せないよ」
ゼロゼロは静かに断言するようにそう言った。私はその言葉にまたしても動揺し、言葉が出てこなくなった。彼女の中には一体、どれほどの確信があるのだろうか。私が心の中で抱えている葛藤や罪悪感を、全て知っているかのようだった。
「……なぜ?」
「だってあなたは、私のことが好きだから」
その言葉に、頭が真っ白になった。まさか、そんな答えが返ってくるとは思ってもみなかった。ゼロゼロの声は静かで落ち着いていて、まるで彼女自身が真実だと信じて疑わないかのような口調だった。私が抱えていた迷いや葛藤をすべて受け止めて、ただの真実として告げられたその言葉に、私は動揺を隠しきれなかった。
「……好き、だって? そんなわけがない」
必死に言葉を振り絞って否定する。だが、その声さえもかすれていた。彼女が何を考えてこの言葉を口にしたのか、私にはわからなかった。ただ、ゼロゼロの言葉はあまりにも確信に満ちていて、私が心の奥底で感じていたものを直接突きつけられた気がした。
「私は、あんたを殺すことで自由になれる。あんたを殺さなきゃ」
私の言葉は、自分自身への言い聞かせだった。そうするべきだと、何度も何度も自分に言い聞かせてきたはずだった。ゼロゼロを殺すことが私に課せられた贖罪の道であり、これ以上の罪を背負わずに済む唯一の方法だと信じてきたはずなのに。
だが、ゼロゼロはその言葉を一切気にする様子もなく、優しい表情を浮かべて私を見つめ続けていた。
「それでも、あなたは私を殺せない。私は、あなたにとって大切な存在だから。私もそう。殺すのなら、殺されてもいいと思ったくらいには」
ゼロゼロの言葉は、まるで自分自身の想いを確認するように淡々としたものだった。私の心の奥底に眠っていた何かを、その一言で引き出してしまったかのようだった。彼女の言葉が放つ温かさと優しさに、私は抗うことができなかった。
いつの間にか、彼女が私にとってかけがえのない存在になっていたことを、私は認めざるを得なかった。彼女が私の世界に現れ、いつも隣にいてくれたことで、私はその存在に救われていたのだ。彼女の無邪気な笑顔が、私の中にある冷たい闇を温め、暗い罪の意識から少しだけ救い出してくれたのだと気づいた。
「……私にとって、大切?」
思わず口をついて出た言葉に、自分自身が驚いていた。ゼロゼロはゆっくりと頷き、その表情に微かな微笑みを浮かべた。
その瞬間、私はすべての答えがそこにあるように感じた。私がゼロゼロを殺せなかったのは、彼女が私にとってただの存在ではなかったからだ。私にとって、彼女は罪の清算の対象などではなく、かけがえのない存在になっていたのだ。
「……ゼロゼロ、私は――」
言葉を続けようとしたその時、彼女はソファから立ち上がって、私の手にそっと触れた。その手の温もりが、まるで私の心を溶かすかのようだった。彼女が隣にいてくれるだけで、私は救われているのだと実感した。
「もう、いいんだよ。無理に私を殺そうとしなくても。私が全部、私の邪魔になるものを全て破壊してあげる」
ゼロゼロの言葉に、私は初めて心からの安堵を覚えた。私にとって、贖罪とはゼロゼロを傷つけることではなく、彼女に寄り添うことなのかもしれない――そう感じた。
私は嗚咽した。
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