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厄介ごと
「おーい、美波、いるかー? おー、いたいた」
ピッ、とセキュリティキーの音がしてドアが開くと、甲迫主任がズカズカと入ってきた。丸フレームの銀縁眼鏡の奥の目の下は万年クマで黒く染まっている。膝下までの長い白衣はしわだらけで、昨夜も研究室のソファで寝ていたことを物語っている。
「主任、たまには家に帰らないと、奥様に逃げられますよぉ」
「いーんだよ。彼女にはユーゴがいるから」
月の2/3以上を研究室に泊まり込んでいる甲迫主任には、元アイドルで美人の奥様がいる。夫婦の間には雄豪くんという神童がいて、奥様の溺愛と英才教育を一身に受けている。昨年、なんとかというヴァイオリンの国際コンクールで入賞したらしい。
「ちゃんと“お父さん”してます? 子ども時代の思い出って、貴重ですよ」
「それ、極東製薬の治験データ?」
あたしの肩越しに、ヌッと顔を突き出してきてデスクトップを覗く。瞬間、彼が湯水の如く愛飲しているモカブレンドの匂いがフワリと香った。
「はい。Bグループに効果の兆しが表れ始めていますね、ここです」
「俺のことはいいんだよ。ん……まぁ、面白いな」
面白い、というのは彼特有の肯定語だ。大学、大学院とずっと同じゼミの先輩だった、あたしには分かる。
「それで、用件はなんですか」
「おー、そうだ。粂山所長が呼んでいるぞ」
「はあっ?! 早く言ってくださいよぅ!」
あたしは慌ててデータセーブして、パソコンをスリープモードに切り替える。粂山所長は短気ではないが、かといって気長な質でもない。
白衣のポケットにスマホだけ突っ込むと、マイペースな主任の背を押して研究室から追い出して、脱兎の如く廊下を駆けた。
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