薄明の光、君のいた日々

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「これは、契約の為に、仕方なく……」  しばらく抵抗していたものの、鍋の火を止めるためにドアを開けて、暴力的なカレーの香りをダイレクトに嗅いだところで心が折れたようだった。  盛り付けをする間、リビングの方に行っててもらうと、ガラス製のローテーブルにちょこんと正座をしながら何やらぶつぶつと呟いていた。  千明の顔でお腹を空かせた表情を見せられて、自然と誘っていた。不思議とあれだけぐちゃぐちゃにかき乱されていた心は穏やかで、カレー皿を棚から二つ取り出す。 「ごはんとパン、どっちが好き?」 「……どっちも好き、です」  一瞬、息が詰まる。そこにいるのは千明でないとわかっているのに、記憶の中の千明と重なってしまう。ゆっくり呼吸を整えて、シンプルにカレーライスを盛り付ける。  リビングに運ぶと、ミカの前にカレーを置いてから正面に回り込み、向かい合うように座る。 「あ、あの。やっぱり」 「いただきます」  何か言いたげだったミカを放って手を合わせ、一口頬張る。うん、旨い。千明の好みに合わせて少し辛さを抑えつつ、玉ねぎのコクと鶏肉の旨味を出したチキンカレー。  向かい側ではしばらくプルプルと震えていたミカが意を決したようにスプーンを握りしめたところだった。そしてそのまま一口。スプーンを加えたまま今度はワナワナ震える。 「おいしい……っ!」 「だろ? 千明のやつ、カレーだけにはうるさくてさ。満足してもらうまで一年くらい試行錯誤したんだ」  さっきまで躊躇っていたのが嘘みたいにミカはカレーを食べ進めている。黙っていると本当にその姿は千明と瓜二つで、食べている姿を見ると温かくて、さびしくて、ほっこりして、息苦しい。 「それにしても、天使も腹が減るんだな」 「下級天使は人間へのメッセンジャーですから。身体の構造は基本的に人間と大差ありません」 「なるほど。でも、大事な時に腹が鳴ったら困らない?」  何気なく聞いたつもりがグサリと刺さってしまったようで、ミカはスプーンを止めると真っ赤な顔でこちらを睨む。 「きょ、今日はちょっと、訳ありで。普段はこんなんじゃないですから」 「訳あり、っていうと」 「私、先月から天界誘園局に配属となって人間界に降りて来て。それから、白羽の矢が立った人間と契約交渉をしてきたわけですが」  玄関に刺さってた矢、そういえば抜かなくて大丈夫だろうか。ミカと同じでお隣さんからは見えてなかったようだし、実害はなさそうだけど。 「天界誘園局は完全歩合制で、契約した人数に応じて給金が支払われます」 「つまり」 「先月は調子が悪く、遂に人間界に持ってきた貯えがなくなり……」  なんだか天界も世知辛いらしい。というか、そんな話聞いたら天界に夢も希望も抱かなくなりそうだけど、スプーン片手にプルプルしているミカはそれどころではなさそうだ。最初に尋ねてきた時のクールな気配はすっかり消え去っていた。 「シゴデキ風に見えて、意外とポンコツなんだ」 「うるさいですね。裁きますよ」  ミカは小さく頬を膨らませると、苛立ち紛れのようにカレーを頬張る。その瞬間ふわりと蕩けた顔になったりと表情が行ったり来たりと忙しい。  初めにミカを見たとき、千明が天使になって尋ねてきたんじゃないかと一瞬本気で考えてしまった。話してみて別人だということを頭で理解しても、時折見える千明っぽい仕草のせいで感情の方が誤動作を起こしそうになる。 「千明も結構ポンコツなところあってさ。砂糖と塩を間違えるのってマンガだけじゃないって教えてもらったし、スマホと間違えてテレビのリモコン持ってきたりするし」  本当に、色々と思い出してしまう。コンビニのレジでいきなりテレビのリモコンを取り出した千明が浮かんできて、思わず吹き出してしまう。ミカはカレーを食べる手を止めてそんな俺の話を静かに聞いていた。 「でもさ、アイツ、いつも一生懸命で。身体の中に時限爆弾みたいな病気が見つかった時も前向きで。そんな千明が好きになって。病気だからとかじゃなくて、ただ一緒にいたら楽しくて、幸せで。だから、だけどっ、隣いたのが俺でよかったのかなあって、今でも、自信なくて……」  ああ、ダメだ。ミカのことを表情がころころ変わるなんて笑えない。俺の方こそ、初めは冷たくあしらって、怒って詰め寄って、昔を思い出して笑って、泣いて。  限られた時間の中で千明と一生分の思い出をつくったつもりだった。だから、後はその思い出を抱えて静かに生きていこうと思っていた。そうやって閉じ込めていた感情が、楔を解かれて爆発するように溢れてくる。 「……私は下級天使ですから詳しいことは知りませんし、知っていたとしても規則で言えないですけど」  頭の上にポンとミカの手が乗せられる。その手がくしゃりと俺の髪を撫でて、顔を上げてみるとミカはくしゃりと不器用な笑みを浮かべていた。 「こんなにおいしいカレーを作ってくれる人が隣にいて。バイクで二人でどこまでも遠くを巡って。彼女はこの世界で貴方と巡り合うことができてよかったと本気で思っています。彼女は彼女の生き方を、後悔なんてしていませんよ」  ミカの手がくしゃくしゃと俺の髪を何度も撫でる。  ああ、本当にポンコツ天使じゃんか。だって俺、バイクの話なんて少しもしてないんだぞ。それなのに、そんな風に断言しやがって。  そんな風に言われたら、信じるしかなくなってしまう。千明がいなくなってからずっと自分で自分を戒めていた楔が緩んで、後はもう溢れてきた感情に押し流されて幼子のように延々と泣き続けた。 『凄いクサいこと言うけどさ。私は直人と会うために生まれてきたんだって、本気で思ってるんだから。そこんとこ忘れないでよね』  いつの間にか忘れてしまっていた千明の言葉が、ふわりと耳元で聞こえた気がした。
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