薄明の光、君のいた日々

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ピピピピピ――  部屋中に響くタイマーに目を覚ます。まだ日暮れ前だけど外は曇天で室内は薄暗い。それから、くつくつと鍋が煮える音とともに柔らかなスープの匂いが広がっている。  ぼんやりとする頭を振ってキッチンに向かい、タイマーを止める。玉ねぎやにんじんの皮などの野菜くずを煮込んでいた鍋には綺麗なブイヨンスープが出来上がっていた。  鍋を一度コンロからどかし、別のフライパンを取り出して予め刻んでいた玉ねぎを炒めていく。無心でフライパンの玉ねぎを木べらで混ぜていると、さっき見ていた夢のことを思い出す。夢というより、在りし日の記憶だ。薄らと抱いた予感の通り、あの日見た「天使の梯子」の光景をいつまでも忘れられないでいる。 『直人は私より料理の方が好きなんじゃないかなって、時々思うのですよ』  キッチンに立っていると、千明は時折そんなことを言いながらちょっかいをかけてきた。背中からつついてきたり、エプロンの裾を握ってきたり。 『でも、千明だって俺の料理好きだろ?』 『……どっちも好き』  玉ねぎが微かに焦げるにおいで意識が過去から戻ってくる。すり下ろしたにんにくとしょうが、それからトマトを入れて潰しながら炒めていく。具材がとろりとするまでしっかり火を通したら、クミンやターメリックなどのスパイスを追加。しっかり混ぜ合わせてから、大きめにカットした野菜と手羽元を並べ、先に煮込んでいたブイヨンスープを濾しながら注いでいく。  スープが沸騰したら全体を混ぜ合わせてフタをする。ここから弱火で二十分ほど。再びタイマーをかけて、相変わらず薄暗い部屋にしゃがみ込む。 『直人と暮らし始めてから、明らかに太ったと思う』 『千明はもう少し肉がついた方が健康的でいいと思うけどな』 『むー。わかってないなあ、直人君は』  腰に手を当てて頬を膨らませる千明の姿。  作業をしている時はいい。目の前のことだけを考えていればいいから。手持無沙汰となった途端、記憶はとりとめなく鮮明に蘇ってくる。  ぼんやりと部屋を見渡す。二人用の部屋。二人分の家具。一人分の生活跡。  なあ、千明。今のこの部屋は、俺には少しばかり広すぎるんだ。  ピンポーン。  思考の海に沈みかけていたところで、インターホンが鳴る。  荷物が来る予定もないし、誰が何の用だろう。  ドアを開けて最初に目に入ったのは、遠くの空で曇り空に隙間ができて、地上に向けて光が差し込んでいる様子だった。 『あの光の梯子を天使が地上と天国を行ったり来たりするらしいの』  脳裏に響くのは、スーパーカブのエンジン音と千明の声。胸の辺りがギリリと締め付けられる。 「あの、どちらを見ているんですか?」  怪訝な声が聞こえてきて我に返る。来訪者そっちのけで空を見ていた。  声の方を見て、息が止まる。俺の胸元くらいまでの背丈、少し心配になる細い身体。首元までの艶やかなショートヘア。無邪気さと儚さが同居したその顔立ちは、まるで。 「……千明?」 「いいえ、違います」    きっぱりとした否定が返ってくる。姿かたちは千明そっくりだったけど、声の質感はまるで違う。それに、服装だって千明が着たことのない様な堅めのスーツ姿だ。何より、千明はおろか人間とは似つかない特徴が来訪者にはあった。 「初めまして。天界誘園局から参りました下級天使のミカです。お見知りおきを」  背中越しに見える白くて大きな翼を一度はためかせると、見た目は千明そっくりの天使であるミカは恭しく一礼した。
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