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「本日は、死後に迷わず天界に辿り着けるよう天使がご案内する、誘園サービスのご案内に参りました」
ミカは肩から下げるビジネスバッグから一枚のパンフレットを手渡してくる。
そこには、ミカが言ったことが役所の資料のように堅苦しく書いてあった。生前のうちに契約しておくと、死後、契約した天使が魂を展開まで導いてくれるというものらしい。
「最近は死後も現世に留まる魂が増えてきました。それは円滑な魂の循環に滞りが生じると同時に、現世に少なからず悪影響を与えます」
ミカの説明はいまいちピンと来なかったが、その背中の大きな翼が言葉に説得力を与えていた。逆に、その翼が無ければ怪しげなセールスと大差ない。
対応に困っていると、隣の部屋の玄関から壁越しにガタガタと音が聞こえてきた。出かける気配だけど、扉を開けて二秒で天使なんて目にしたら、気が動転してしまわないだろうか。
「隣、出てきそうだけど大丈夫?」
「お気遣いなく。私の姿は選ばれし者の目にしか見えませんから」
ガタリ、と隣の部屋のドアが開く。ジャージで出てきた三十代くらいの男性はちらりとこちらを見ると、軽く会釈をして外へと走っていった。ミカの姿が見えていた様子はない。
「ミカ、だっけ。俺はもうすぐ死ぬのか?」
「なぜです?」
「だってそうだろ。天使が見えるようになるなんて、そろそろこの世とおさらばするからじゃないのか」
まだ三十歳を過ぎたばかりだけど、年齢に寄らず人間があっさり死んでしまうということは、身をもって知っている。
「いいえ、違います」
ミカは俺の言葉をきっぱりと否定すると、名前の書かれていない表札を指さした。そこには白羽の矢が刺さっている。スーツ姿の天使が来ている時点で人間の常識なんて通用しないのだろうけど、特に宗教観はないらしい。
ミカの生真面目な態度と白羽の矢のギャップに思わず表情が崩れてしまって、それをどう受け取ったのか、ミカが一歩近寄ってくる。
「貴方は神から選ばれました。その理由は下級天使の私には知らされません」
ミカは寸分も表情を変えない。本当に知らされていないのか、知ってて言わないだけなのか、俺には区別はつかなかった。
サンダルに足をつっかけて、部屋の外に出る。遠くに見える天使の梯子は雲の動きで少しずつ存在がおぼろげになっていた。
手すりに肘をかけて、家よりも田んぼが目立つ田舎町を見下ろす。千明が好きだった景色。煙草を吸いたくなったが、ミカの手前控えておき、その代わりに肺の奥に溜まった息を吐き出した。
「残念だけど、俺は千明が迎えに来るのを待つって決めてるんだ」
「……それは、推奨しません」
振り返ると、ミカが固く口を結んでいる。初めて見せた表情の動きかも知れない。
だけど、推奨しないというのはどういうことなのか。ここで契約しないと困るのか、それとも千明が迎えに来ることなどありえないということか。
少し待ってみてもミカが言葉を続ける気配はなかったので、視線を柵の外へと戻す。
「じゃあさ、教えてくれよ。その天界とやらに千明はいるのか?」
「お答えできません」
涼やかな秋の空に響くミカの声は冷酷なまでに機械的だった。
風が強い。さっきまで地上に差し込んでいた天使の梯子の光は既に見えなくなっていた。
天国なんて信じていなければ、天使の梯子なんて自然現象に過ぎないと思っている。そのはずなのに、微かに胸が締め付けられる気がした。
「残念だな。そこに千明がいるって言ってくれれば、今すぐに契約書にサインして、連れてってもらったのに」
「命は、粗末にすべきではありません」
背中からかけられたミカの声が固い。きっと生真面目な顔をしているんだろう。
スーパーカブの後ろに千明を乗せて走っていたころを思い出す。あの時の千明はどんな顔をしていたのだろう。空の色を見てはしゃぐ声。バイクが揺れる度に力が籠った手。離れていってしまうと知っていたはずなのに、どこかで俺は目を背けていたのかもしれない。
「人は与えられた天命を果たすその日まで懸命に生きるべきです。無駄にすることは許されません」
「じゃあ」
ミカの声に思わず振り返る。俺を見上げるミカの瞳が微かに見開かれた。俺はどんな顔をしているんだろう。聞き流せばいいような一言だとわかっていても、火のついた衝動は止まらない。
「じゃあ、千明の天命ってなんだったんだよ! 千明は命を粗末に――無駄に散らしたとでも言うのかよ!」
詰め寄ってもミカは微動だにしなかった。それがまた薄暗い感情に火をつけて、胸ぐらをつかみかけて、不意に力が抜けた。こちらを見上げるミカは千明とそっくりの顔をしていて、罪悪感に頬を引っ叩かれたように足元がぐらぐらした。
「悪いけど、帰ってくれ。契約する気なんてないし、お互い時間の無駄だろうから」
「待ってください」
掴みかかられたのに、ミカは全く動じていない。そんな顔で――千明の顔でこっちを見るな。真っすぐ見つめられるだけで、自分を守るために固めていた殻を引き剥がされているような感覚に陥る。
「貴方に契約してもらわないと、困――」
ミカの言葉が途中で止まる。その代わりに聞こえたのは、くぅ、という可愛らしい腹の音だった。俺の腹はそんなに上品じゃないし、そうなればどこから響いてきたかは明らかだった。
さっきまで殆ど表情を変えることのなかったミカが顔を真っ赤にしてお腹の辺りを抑えながら、俺から一歩二歩後ずさる。
「ち、違うんです。これは天使のラッパ的なやつで、決して生理現象ではっ」
「あのさ。カレー、食ってく?」
「……は?」
ミカの顔がキョトンとする。堅物かと思っていたけど、意外とその表情はよく動くらしい。
ちょうど換気扇からはカレーの匂いが外まで広がってきていたし、出来上がりを告げるタイマーの音が響いてきていた。
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