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     その時、その場所に俺が居た筈は無い。    202●年6月6日、午前8時9分。住宅地から駅前の繁華街へ繋がる大通りと二本の細い路地が交わる、ありふれた三叉路。    薄曇りの月曜日だった。通勤ラッシュの時間帯は過ぎていて、駅へ急ぐ勤め人や学生の姿も疎ら。    そんな穏やか、且つ退屈な光景とそぐわない汚れに汚れたパジャマ姿で、裸足のまま靴も履かず、俺は往来のド真ん中にポツンと立っている。    横を通り抜けていく通行人は誰一人として俺の存在に気づかない。まるで幽霊になったような気分だ。    そして次に何が起きるのか……それはもう嫌という程、知っている。思い知らされている、と言うべきか?  繰り返し、繰返し味わってきた悪夢のループ。    止めようとしても無駄だ。どうせ、体が動かない。目や耳を閉じる事さえできない。  あぁ、畜生!    無駄と知りつつもがく内、30才になったばかりのあいつ……俺の妻がショートヘアを風に靡かせ、細い路地の角を曲がって現れた。    手をつないでいるのは、もうすぐ4才になる自慢の娘だ。    見なよ、ホラ。可愛いだろ?    通りの先にある幼稚園を目指し、娘はテディベアのイラストが入ったお気に入りの手提げバッグを揺らしながら歩いている。    そばかすの目立つ豊かな頬の上、クリッと大きな目を細くして、スキップするように足を弾ませ……    一緒に歌う声も聞こえた。    幼稚園で習った童謡だそうだが、その一節しか俺は聞いた事が無い。だから、このループが続く限り、二人は全く同じ部分を繰り返し、繰り返し歌う。    そして、信号が青になり、交差点を渡りだすと同時に……    コツコツ。    堅い靴先が舗道を叩く音がし、見るからに怪しい男が近づいてきた。    コツコツ。    黒いジャージの上に黒いジャンパーを着こみ、五十代くらいに見える白髪の男、そいつが突然小走りになる。    ジャンパーをはだけ、背中側へ手をまわし、隠し持っていた禍々しい凶器、刃渡り30センチ程の黒いサバイバルナイフを取り出す。   「危ない、逃げろ!」  届く筈の無い叫びを、黒ジャージの男が上げる怒声がかき消し、俺は両手で顔を覆った。  でも見える。指の隙間から、血なまぐさい犯行の様子が覗く。    いつも通りだ。    見たくないのに、見ずにいられない。  二度と持主の、あの小さな胸に抱かれる事の無いテディベアのバッグが路へ落ち、逃げ惑う通行人の足でぺしゃんこに踏み潰された。  通り魔は止まらない。  言葉にならない叫びを上げたかと思えば、殺戮の高揚感で瞳へ暗い炎を宿し、目に付いた者を片っ端から追いかけて、背中から刺す。  刺して、刺して、めった刺し。  娘を庇って覆い被さる妻の背から溢れる血が、刃の貫通で噴き出す娘の血と混じり合い、アスファルトに深紅の糸を引く。  あぁ、畜生、畜生っ!  この金縛りが解けたら、今すぐ、あいつを、あのケダモノを、この手で引き裂いてやるのに!    もう動かない娘を抱え、助けを求める妻の掠れ声が、思考の停止した俺の、頭の内側で何度も反響し……  視界が闇に呑まれ、どれ位の時が経ったのか?  窓のカーテンを閉め切り、食物の腐敗臭が漂う暗く汚い部屋で、俺は目を覚ました。  現実……現実なのか、コレ?    一先ずループが途切れたらしい。それは有難いけれど、悪夢の中の耳障りな音はまだ耳から離れない。    そして、それは妄想の残響だけではなかった。耳障りでリアルな音。誰かが玄関のドアを叩いている。  コツコツ。  規則正しいリズムで窓から時折り差し込む光と正確に連動しており、何だか、ひどく煩わしい。  コツコツ。  さて、今は何時頃だろう?    およそ時間の感覚が無く、腹も空いていなかった。もう何日ろくに食べていないか、それさえ分からない。    息苦しさを感じ、汚れた水槽の金魚よろしく万年床から上体を起こして、口をパクパクさせてみる。  床へ胡坐をかいたまま一息つくと、居間のテーブルの上、林立する写真立てが見えた。  どれも家族三人の笑顔が溢れる幸せな時代の記録だ。    忘れたくないから、いや、忘れられないから、携帯電話のメモリに残っていたポートレート画像を全て印刷し、フォトフレームへ入れて、目につく場所へ飾ってある。  なぁ、俺も早くそっちへ連れてってくれないか?  写真の中へ呼びかける独り言の虚しさ、侘しさに、俺、もうすっかり慣れちまったよ。  呼びかけた所で、虚しさが募るだけだ。  コツコツ。    耳障りな音にせっつかれ、俺は頭を左右に振って、何とか記憶を整理しようと試みる。
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