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そうだ、あの日……
202●年6月6日、午前8時。
家族三人が暮らす、このこじんまりした新築住宅から、妻は娘を連れて外へ出た。通園バスも近くまで来てくれるのだが、僅かな距離だし、娘と一緒に歩きたいと彼女は良く言っていた。
手をつなぎ、歌いながら行く道のりはきっと楽しかった事だろう。
俺自身がその光景を目にした記憶は無い。
あ、これ、前にも話したっけ?
ダメだな。
最近、疲れが溜まってボケ気味なんだよ。どうにも頭がまとまらない。
あぁ、そうそう……酷すぎる形で妻と娘の日常が中断されたのと同じ頃、俺はいつもの通勤列車に揺られていたんだ。
普段、列車の中でスマホは使わない。だから、その日、液晶画面を覗いたのはたまたまだ。風の知らせと言うしかない。
初期画面のアプリをいじると、ニュース速報のウィンドウが開き、ある通り魔事件の発生を報じていた。
通りかかった幼い少女とその母親を含む七名の男女が死傷したという。被害者の身元、氏名等は調査中だそうで、表示されない。
嫌なニュースだと思った。思ったが、昨今は珍しくもない。
2020年代半ばから急加速した経済の落ち込みに合わせ、先進国で一番低かった筈の犯罪率が急上昇。
標的は誰でも良い、早く死刑になりたい、なんて類の「無敵の人」が今や何処にでもいる世の中だ。
何時の間にやら、凶悪事件の報道に目も耳も慣れていた。普段なら一瞥しただけで、俺はスマホをしまっている。
でも、あの時は現場の住所が気になったんだ。
家の近く、いや、娘が通う幼稚園のすぐ側だと気づき、慌てて妻のスマホへ掛けてみたが繋がらない。
胸騒ぎが止まらず、会社に欠勤の報告を入れた後、次の駅で列車を降りて引き返した。
家に戻っても妻の姿は無く、幼稚園までの足取りを辿ってみる。
そして、あの交差点の手前まで来て、警官や野次馬でごった返す事件後の混乱に遭遇した。
勿論、負傷者はとうに救急車で搬送されており、亡くなった人の遺体も見当たらない。
変に現実味が乏しいモノクロじみた色合いの中、只、歩道に残る鮮血の痕跡だけが鮮烈で……
まさか!?
路上に佇む俺の頭には、只、その言葉しか浮かばなかったよ。
渦巻く恐怖を強引に打ち消し、凍り付いた体を動かそうとした瞬間、現場をうろつく鑑識係の足元、テディベアのバッグが落ちているのに気付く。
血まみれのぺしゃんこだ。
絶望が俺を圧し潰し、それ以来、時間の感覚を失って、同じ夢ばかり見る様になった。
但し、内容は変化し続けている。
警察の捜査で判明した事件のディティールを、俺が報道で知る度に取り込み、悪夢がアップデートしているらしい。
その場にいなかった筈の俺が、目の前で妻子を失う想像上の光景だけ、毎晩、眠りに落ちる度、そっくりそのまま反復し続けて……
コツコツ。
現実の記憶と悪夢の間にある朧げな境界を行きつ戻りつ、不毛な物思いにふける間も単調にドアを叩く音が、俺の汚い部屋へ響き続けていた。
コツコツ、コツコツ。
絶え間なく、絶える事無く……
コツコツ。
しつけぇな、全く。
あぁ、そう言えば、俺、午前11時に或る週刊誌のインタビューを受ける約束をしてたっけ?
写真立ての横にある目覚まし時計を見ると、レポーターがまもなく訪れる頃合いだ。
目は真っ赤に充血。
声もガラガラで、このままじゃまともに話せそうにない。水でも飲もうと思いつき、台所へ行く。
ついでに顔を洗うと、少しだけ頭の中が冴えてきた。
妻子の犠牲を少しでも意味あるものにする為、俺には世間へ訴えたい事がある。どうしても訴えなければならない事が。
だから事件後、幾つかのマスコミから続けて取材を受け、その度に心がすり減っていくのを感じた。
ネットでもアレコレ、好き放題に書かれたしさ。
怒りと犯人への憎しみが日増しに膨れ、段々と何を訴えたかったのか、自分でもわからなくなっていく。
そんな被害者の憔悴が「絵」になるとでも思ったのだろうか?
見出しになるシーンを撮りたい一心で、俺の汚部屋へカメラを持ち込み、わざと被害者の心を抉る酷な質問を繰り出す記者がいた。
例えば昨日、訪ねてきた二人組だ。
表情が判りにくい度付きのサングラスをかけた学者風の男、元ヤン風のいかつい奴……あいつらも正にそういうタイプだったっけ。
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