6人が本棚に入れています
本棚に追加
鎮守の森
時は江戸時代。
まだ武士の間で衆道というしきたりがまかり通っていた頃。
ある武家屋敷に元服を迎えたばかりの少年がいた。
改名して、名を新之助に改めた、藤原時完(フジワラトキサダ)の息子、藤原新之助である。
元服を迎えた少年は前髪を切り落として髷を結い、念者がつくのだが、念者となる者は通常20歳前後の若い武士だ。
しかし、新之助の念者に選ばれたのは、40を超えた佐江崎晴臣(サエザキハルオミ)という男であった。
この佐江崎という男は父の時完と同じく城勤めをしているが、かなりな曲者で、この度新之助を手に入れたのも、上役に上手く取り入って強引に念者になったのだ。
新之助は衆道というしきたりも嫌だったが、自分の父親とさほど変わらぬ歳の、佐江崎の事を気に入る筈がなかった。
だが、契りを結ぶ事を急かす佐江崎は、度々新之助の屋敷に使いを出して、自分の屋敷に来るように言ってくる。
新之助はひたすら拒み続けた。
そんなある日、業を煮やした佐江崎は遂に暴挙に出る。
手下を2人引き連れて新之助の屋敷にやって来ると、あろうことか……その場で契りを交わすと言い出したのだ。
父と母がいる自分の屋敷で、そんな事をされるのは嫌に決まっている。
新之助は隙を見て、父と佐江崎達が対峙する座敷を逃げ出した。
あてなどない。
屋敷の敷地内から外へ出ると、一心不乱にひたすら走った。
息を切らして獣道へ入り、道なき道を無我夢中で進んで行ったら、やがて目の前に澄んだ水を湛える湖が現れた。
木々に囲まれた湖の隅には、小さな祠があった。
何かが祀られているんだと思ったが、新之助はここが鎮守の森だという事を知らなかった。
ただ、佐江崎から逃れたい。
新之助の頭にはそれしかなかったが、透き通った湖面を眺めているうちに、引き寄せられるように岸辺に歩み寄っていた。
しかし、ぬかるんだ地面に足をついた時、草履が滑って湖へ落ちてしまった。
「わ、うわあ……!」
湖は思わぬ程深く、水は肌を切るように冷たい。
新之助は岸へ戻ろうとして藻掻いたが、水に濡れた着物がそれを阻んだ。
静まり返る森の中に、バシャバシャという水音が響き渡り、言葉にならぬ悲痛な叫び声が辺りにこだまする……。
新之助は、無念な思いを抱きながら湖へ沈むしかなかった。
最早、自らの運命を受け入れるしかない。
けれど、その騒ぎに気づいた者がいた。
人よりも遥かに大きな体を持つその者は、湖の底にある洞窟から飛び出すと、長い体をくねらせながらまっすぐに新之助の所へ向かう。
蛇のような長い体に鉤爪のある四肢、白銀の鱗に赤い目、頭には2本の角が生えている。
この森の主、龍神だ。
龍神は直ぐに新之助を見つけると、牙の生えた口で優しく新之助を咥え、即座に水面から飛び出した。
キラキラと水飛沫を飛び散らせてそのまま宙を舞い、湖の岸へと降り立った。
龍神は気を失った新之助をそっと地面に降ろし、人と同じような姿に化けた。
白銀の長い髪に赤い目、白装束を身にまとっているが、その顔はおなごと見まごう程に美しい。
龍神はまだ幼い少年を見て、身なりから武家の子息である事を見抜いた。
「う……」
柔草の上に寝かされた新之助は、さほど経たぬうちに意識を取り戻し、ぼんやりと霞む目で側に立つ龍神を目にした。
「よかった……、そなたはまだ逝くには早すぎる」
龍神は無表情にポツリと呟く。
「え? あ……」
新之助は自分は死んだと思っていたので、わけがわからず混乱したが、側に立つ女人のような美しい青年を見あげ、明らかに普通の人間とは違う姿を見て唖然としていた。
最初のコメントを投稿しよう!