1人が本棚に入れています
本棚に追加
2.『周りが言っている』『誰やねん!』
鍋島という男がいる。私より1歳年上で、最初はとても感じの良い人だった。
新しい職場では、パソコンの設定から始まる。冷たい職場になると、「自分でやってね。」と手順書を渡されて、一日中四苦八苦しなければならない。
鍋島は親切にも、一緒になって設定してくれた。
最初はなんていい人なんだろうと思っていた。
ところが一緒に過ごすうちに、引っかかるところが出て来た。仕事についての説明を受ける時など、ミーティング室で二人きりになることが何度かあった。
その時に、同じ部署の誰これはどうのこうのと悪口を言い始めたのだった。
特に同じ非常勤の田中さんという人のことを悪く言った。
「書類を整頓してくれと言っても、腰が悪いから出来ませんと言った。」
とか、
「棚を拭いてくれと言ってもなかなかしない。」
とか。
(それくらい自分ですりゃいいじゃん)
と不快になった。
してくれないんだったら一緒にやればいいのだ。手伝ってと言えばいいことだ。
結局、最初の一週間の私の仕事は書類の整頓と、棚の拭き掃除になった。その合間に研修があった。これは他の頭にいい職員の人がしてくれた。
書類の整頓や掃除は今までだってやってきたので屁でもなかった。
保管期限が切れた書類を段ボールに詰め込んで、所定の場所に運ぶ。
新しくファイルを作る。その合間に棚を拭く。
暇よりもましだと思った。
さらに不快になったのは、「田中さんあんなだから独身なんだよ。」
などと私生活に踏み込んだようなことを言ったのだ。
私は不幸な結婚をするくらいなら、一生結婚なんかしない方がいいと思っているので、その考え方はおかしいと思った。
結婚できるからその人の価値が上がるなどとは思わない。世の中には結婚してはいけないのに結婚し、親になってはいけないのになる人が多い。こういった家庭は子供は悲惨な経験をするはめになる。
そして数カ月経つうちに、鍋島もその一人だとわかった。
田中さんはいい人だ。
事務員というのは意地悪でキツい人が多い。
何度も質問すると、「こないだ言ったでしょ。」
「何度同じことを聞くの!」
ミスをすると、「なんで聞かないのよ!」
こんなんばっかりである。
そんな中で、田中さんは優しい方である。丁寧に仕事を教えてくれる。もっとも仕事らしい仕事はなかったので、電話の取り方や、お茶当番や郵便分のことをきちんと教えてくれた。
こういった些細なことでも、いじわるな人はきちんと教えてくれないのだ。
恐るべし事務員の世界。
田中さんと親しくしゃべるようになって、同じ部署の人たちはみ~んなトンデモない人だとわかった。
ここで言っておきたいのは、だからと言って私は田中さんのことも心の底からは信用していない。
職場というのは仲がいい人の関係の方が恐ろしいということを過去の経験で痛感したのだった。職場では全員敵である。
心から信頼はしていない、けれども仲良く仕事する。これは私自身の鎧である。傷つけ、傷つけられた経験からなせる知恵であった。
しかし、である。ここまでひどい奴らの職場は自分の仕事人生でも初めてかもしれない。
前職で数カ月で契約を切られた時は正直悔しかった。仕方ないとは思っていても。周りは若い人ばかりで、とても楽しかったのだ。私が彼女たちの母親と同世代であったけれども、おばさんであることによって吞み込みが悪くても大目に見てくれるところがあって精神的に楽だった。
私はおばさんであるが、おばさんと一緒に仕事をするのは嫌いである。会話は家庭のことばかりでつまらないのだ。夫のこと、子供のこと、全然興味ない。特に子供が受験期に入ると、出産後の雌猫のように、敏感になるどころか凶暴になる。話を聞くだけでもうんざりする。よその子供がどこの大学に受験して受かるかどうかなんてどうだっていい。
そしておばさん同士で子供の優秀さを競うのにもいやだった。それでもめるのも見てきた。
さて、ひどい奴らのひどさ加減の一つを上げておきたい。
こいつらは一人誰か不在であるとする。その人の噂話や悪口を言い合うのだ。
口火を切るのは鍋島である。
そして田中さんをターゲットにしている。
こいった時は普段悪口を言い合っている正規職員は一致団結する。
トップの課長も見て見ぬふりだ。
くだらないことで難癖をつけるのだった。電話当番を新人の私だけにしている。(いや、新人の仕事でしょ。)お茶当番について、保温機能がないポットだから、昼にはもう一度、給湯室に行って、お湯を沸かし直して入れろ、とか。
極めつけは、用紙をプリントし過ぎるとケチをつけたのだった。
「ペーパーレスって言葉を知らないのか!」
と皆の前で叱ったのだった。データ入力をする際に、データからデータを入力したり、確認作業をする時に画面上で完璧にやれと言うのだった。
私もある時、鍋島に呼びつけられた。田中さんと同じ仕事をすることになって、私は用紙を何枚も印刷して、仕事をしている。わからないことがわからない状態の頃だった。
そしてある時、私も鍋島に呼びつけられた。しかももう一人他の正規職員を一緒にミーティング室に連れてきたのだった。
「芹沢さん、用紙を印刷し過ぎるんじゃないか?周りの人が言っているから、僕が注意させてもらうよ。ペーパーレスで仕事ができるようにするのはうちだけではなくて世間のどの企業も経費節減のために取り組んでいることだ。」
「誰が言っているんですか?」
『周りの人が言っている』という言葉にカチンときた。
思わぬ反撃に鍋島は一瞬だじろいた。私はこう見えても大人しく淑やかに見えるらしい。はっきり物を言うタイプには見えないといろんな職場で言われてきた。鍋島は私の反応の驚きつつも、言葉を荒げた。
そこから言い争いになった。
誰でもいいじゃないか!いえ、そんなことはありません。
「鍋島さんが気になって、印刷を控えるようにって言ってもいいじゃないですか。周りの人が言っている、その中に僕もいるっておっしゃってもいいじゃないですか。」
匿名性が私は気に入らなかった。誰が言い出しっぺなのかバレバレであるが。
言い争いは堂々巡りになった。
同席した女性の正規職員はうんざりした顔をしていた。
私は勉強のために関連することをインターネットの記事をプリントアウトしてファイルもしていたので、これについてはお気に入り登録をしたらいい、と言った。ただしデータ入力については何も言わなかった。
私が意見を言ったのは、次のいじめのターゲットは間違いなく、私になると思ったからだった。田中さんは難癖をつけられても、叱られても言い返さない。「すいません、すいません。」と謝る。
鍋島に対して私は一歩も引かなかった。すると鍋島はミーティング室に課長を連れてきたのだった。そして課長自ら、「私が気になって鍋島さんから注意するように言ったんだよ。」と大嘘をこいてその場を収めたのだった。
わかりましたと小さい声で返事をした私を後に課長はさっさとミーティング室を去っていった。
鍋島は私をじっと睨みつけた。私は睨み返した。
中学時代校内暴力のひどい学校で過ごした私である。こんな奴よりもっともっと怖い不良たちがたくさんいた。窓ガラスは割られるわ、消火器の中味を廊下にぶちまけられるわ、もうメチャクチャな学生時代だった。
消しゴムで消したいような悲惨な時代である。
まさかあの経験が生きてくるとは思いもしなかった。こんな奴怖くとも何ともない!
それよりも不良のボスだった同級生(注:女の子)の方が100倍恐いと思った。
昔のことだけれども。
こちとら職場でいろんな経験を積んできたわけではない。
いじめは初期消火が大事なのだ。少しでもその兆候があれば、それをぶっつぶさなければえらいことになる。
最初のコメントを投稿しよう!