まだら雲の隙間から

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まだら雲の隙間から青が覗く。 きれいだ、とても。 僕はとても気分が良くて、だからこうして空を仰ぎ風に吹かれている。 秋、深し 余韻に浸るに今日のような日和はぴったりだ。春から数えて3つ目の季節に彩られる景色に身を投じ、紅葉に染まる。 僕は雲の上にいる。不思議だよね。僕は死んだんだけどそのお陰で、小さい頃の夢を叶えることができたんだから。 雲の色は様々だ。仰いだ空に浮かぶ雲は大概白だったんだけど、純白に敢えて墨を垂らたような色もあるし、帯電しビリビリ音を立てオレンジの閃光を瞬間放つ、嫌な雲もある。そんなものの上は、歩かないけどさ。 ふわふわしていると思い込んでいた雲は、歩いても何の感触も足に伝わってこなくて僕はそれに物足りなさを感じて、雲の切れ間に足をかけてみたんだけど、やはり何の感触もなくて。オリフィエルにそう伝えたら 「そりゃね」 とにべもなかった。 「そりゃね、って何だよ。ふわふわでも硬くもない地面って気持ち悪いって言ってるの」 僕の不満をオリフィエルは軽くあしらう。 「そんなものから解放された君自身を楽しみなよ」  僕がここに来たのは随分前のこと。クラスメートの高木春海さんがさ、絵の具を忘れちゃったんだよ。4時間目美術なのに。絵を描くのに絵の具がないのはいけないね。描けないからね、描きたくても。 高木さんは困ってた。絵の具を忘れたことに気付いたのか、4時間目美術だということを忘れていたのかそれは分からないけど、2時間目の休み時間に急に慌てだして。 「どうしよう」 とか言ってたな。高木さんは女子からいじめられていて誰からも話しかけられなくて、可哀想に思って僕は時々話し相手になっていたんだけど、そしたら僕もいじめられるようになっちゃって。参ったよ。どうしてああなんだろうな、彼らは。ひとりじゃ何もできないくせにさ。 僕はひとりでも平気だし、乱暴な男子に背中を蹴られたり、みんなから無視されたって先生に何も言わなかったし、親にも泣き言は言わなかった。男だからとか陳腐な理由じゃなく、あんな連中と同じフィールドに立つ気はなかったから。  だけど高木さんは違って、僕がいじめられるようになったことをこれ幸いとばかりに、煙幕に使うようになって。それまで培った関係なんてどうでもいいって感じで放りだしちゃってさ。あれには参ったね。ひとりぼっちは平気だけど、それなりに打ち解けたつもりでいたから、そんな相手に手酷く切られるのはそりゃ抵抗を覚えるさ。 「よくそんな風にできるね」 僕は言ったんだ、高木さんに。2人きり、屋上で話し合おうと思って。高木さんは悪びれもせず 「あんたが勝手にやったことじゃない」 「いい人ぶりたかっただけでしょ、私を使って」 「目的達成できたんだからよかったじゃん。お礼言ってほしいくらいだよ」 って畳みかけてくるから頭にきてさ。いい人ぶりたい僕が勝手にやったことなのなら、最初にシャットアウトすればよかったじゃないか。 「あんたなんかお断り」 って。 時に涙を見せながら孤立していることが辛いって言うから、話し相手になったのに。そんな人だと知っていたら端から相手にしなかったさ。 「僕が悪いってこと?」 下らない問いかけに高木さんはとても偉そうに踏ん反りがえって 「そうね」 と言ったんだ。ああ、もういいや、って。それを聞いたとき。僕が悪かったんだよ、こんな人に良かれと思って声をかけてしまったんだもの。 だからそれ以降僕は高木さんと一言も口をきいていないし、何ならお互い知らん顔して過ごしていたんだけど、僕がいじめられるようになったからって、僕を煙幕にしようと試みたって、高木さんが女子の魔手から逃れられたわけではなくてさ。あの人いじめられて辛いって言っていたけど、あの性格の悪さじゃそりゃ疎まれるんじゃないの。 あの日「絵の具がない」って慌てる高木さんを相手にする人は、クラスに誰もいなくて。女子も男子もみんな知らん顔してたし、僕は3時間目の国語の準備に忙しくしていたから、やっぱり知らん顔したし。どうしよう、どうしよう、っていう高木さんの呟きを(うるさいな)と思いながら聞き流したんだ。 4時間目、美術の先生はこれ以上ないほどに高木さんを叱責したんだ。弛んでるとかバカにしてるのかとか、なんかそんなことを喚き散らしてさ。僕以外にも先生の迫力に呆気に取られる人、結構いた。普段そんなに怒らない先生っていうのもあるけど、 「俺はお前が嫌いなんだよ!」 って高木さんに先生が怒鳴った瞬間、美術室は静まり返ったね。先生がそれ言っちゃうんだ、って。 僕は空気を変えようとか先生を助けたいとか、そんなことを考えたわけじゃなく、本心から 「高木さんのことはみんな嫌いだよ」 と言ったんだ。だってそうに決まっているもの。親切にした僕をあんな風に謗って、平気な顔して僕を盾にしようとして失敗して、それまで以上に嫌われて。 なんてバカなんだろうとずっと思っててさ。だから思わず口にしちゃったんだよ。 「ちょっ!」 女子の中で一番目立つ子が、そう言ってケラケラ笑いだして。そしたらみんなも笑いだして。その現象を僕は不思議なもののように感じたから、ふと周囲を見渡したのだけれどなんでか先生も笑っていて。赤と青と黒が混じったような顔色をして、全身硬直させた高木さんをみんなが嘲笑していた。僕は笑わなかったんだけど、高木さんはきっとそんなこと気付いてもいないんだろうな。 昼休みになって高木さんに 「ちょっといい?」 って声かけられたから 「嫌だ」 って答えた。そしたら周りのやつらがまた笑いだすから 「うるさいな!」 と僕は怒鳴って教室を出た。 「何あいつ」 なんて声が背中に届いたけど、そんなの知るもんか。僕は憤慨していた。僕のことを仲間外れにしていた連中が、僕が高木さんを「みんなが嫌っている」と発言した途端、仲良くしようとしてきたから。僕は全力で断った。君たちと同じレベルに落ちたくないよ、って。僕の話す言葉の意味が彼らはどうも理解できないようで、なんやかんやと声かけてきたけど一通り無視して、給食を食べ終えて片付けていたら高木さんが話しかけてきたんだ。 教室を出た僕を高木さんは追いかけてきて 「待ちなさいよ!」 とか 「逃げるな!」 とか、偉そうに指図してきたけど僕は無視した。待つ理由なんかないし別に逃げてないし。「君のことを避けているんだよ」と教えてあげた方がよかったのかな。今はもうそんなこと、どうでもいいんだけど。背後で喚き声をあげていた高木さんは次第に遠くなって、僕は校庭に出た。 テニスに興じている連中を暫し眺めて、5時間目が始まる前に教室に戻るつもりでいたんだけど、何か色んなことが急に嫌になっちゃって。テニスやってる彼らはとても楽しそうなのに、僕はこんなに嫌な気持ちを全身に纏っていて。何て面倒なんだろうって。 家に帰ろうと教室に鞄を取りに行ったんだ。 教室のある3階に辿り着いて、みんなはまだガヤガヤやっていて、僕は鞄に教科書やらを詰め込んで廊下に出た。 「帰るのー?」 って誰かが聞いてきたけどそれも無視した。ムシャクシャしていたんだ、どうしようもなく。 階段を降りようとした瞬間、背中に衝撃が走ってさ。僕は慌てて手すりを掴んで振り向いたんだけど、凄まじく顔を引き攣らせた高木さんが僕に 「死ね!」 って言ったんだよね。え?と思ったんだけど、高木さんは何度も「死ね!」と言いながら、僕を階段から落とそうとするわけ。でも僕は手すりを掴んでいるし、力で高木さんに負けるわけはないし、 「何やってんのあんた?」 って言いながら、高木さんのパンチや蹴りを避けてたんだ。そこに担任が駆けつけてきて 「何やってんだお前ら!」 だってさ。僕は何もしてないっての。高木さんのひとり相撲じゃないか。バカバカしい。 誰が担任を呼びつけたのか知らないけど、高木さんが僕を「殺そうとした」ことは大騒動になった。高木さんの親が家に謝罪に来たり、親父には 「女の子にやられるってお前大丈夫か?」 とか訳の分かんないこと聞かれるし、お母さんは高木さんに怒り狂ってるし。暫く休めって親に言われてその通りにした。塾には通ったけどね。 で、その塾帰り。高木さんのお父さんに車で跳ね飛ばされたんだ。 意識不明の重体で5日。死亡が確認されたのは事故の6日後。泣き狂う両親の姿を見るのは辛かったな。僕だってこんな目に遭うなんて思ってないからさ。 謝罪に来た高木さんのお父さんが 「お宅の息子さんにも落ち度があったんじゃ?」 と口にしていたなんて知らなかったし、知っていたら少しは警戒したかも知れないのにってオリフィエルに問うてみても 「それはないね。君は高を括ったさ」 と軽く言って退けられた。 5歳くらいの男の子なのにやたら達観していて、瞳の奥は物憂げで、近寄りがたい圧も感じたりで、僕は一目見てオリフィエルを気に入ったんだ。 オリフィエルは色んなことを教えてくれた。この世界で暮らしていくのに必要なこと、様々。服は着たければ着ればいいし、着たくないならこことは別の場所に行けばいいとか。飲食の必要はないこととか、髪の毛なんかはもう伸びたりしないから、切る必要はないとか。 「下らないことばかり聞くね。もっと他に知りたいことあるだろ?ここはどこなのとか、君は誰なんだとか」 オリフィエルは呆れたように口にしたけど、そんなことどうでもよくて。僕はオリフィエルを気に入って、子供の頃から歩いてみたいと願っていた雲の上を闊歩できるようになったことを心底喜んでいて、だから高木さんがその後どうなったかなんて考えもしなかったんだけど 「あの子は灰になったよ」 とオリフィエルに伝えられて。 「灰?死んだの?」 「跡形もなく消え去った」 ふーん、と僕は鼻を鳴らした。死ぬならあの親父の方じゃないかと思ったけど、そうはならなかったみたいだな。余罪ってのが他にいくつもあって、娑婆に出てくることはもうないらしいと、父親が親戚に語っている映像をオリフィエルは見せてくれて。 「お母さんの姿は見ない方がいい」 って言うからその通りにした。あの人は愛情のかたまりだからね。ひとり息子に先立たれたら、どうなるかなんて聞かなくても分かるというか。 「ああ。母さんはいいや」 学校には行かなくていいけど塾には行くように、僕に命じたのは母さんだったから。多分物凄く責任を感じていると思うよ。車が目の前に現れた瞬間、僕は生ぬるい空気に包まれて眠りこけていたから、痛みを感じたことは多分ないと思うんだけど、オリフィエルは 「そんなことはないよ。君が忘れているだけさ」 って言うし、どっちなんだろうな。多分オリフィエルの言う通りなんだろうけど、もう覚えていないし、そもそも痛みなんか覚えていなくていいし。 そんな話をオリフィエルにしたら、存外愉快そうに笑って 「君らしくていいんじゃない?」 って言ってくれた。 ここに来た頃はやたらオリフィエルと話したものだけれど、ここでの暮らしにも大分慣れてきて、僕はひとりでいることは苦にならないから、たまにオリフィエルと話せたらそれでいいや、なんて。 オリフィエルの後にくっついて歩くユカって女の子がいるんだけど、この子がやたら煩くて僕は苦手なんだ。オリフィエルが 「今度来るときはユカも一緒だけど、気にしなくていいからね」 って言ってたけど、気が重いな。あの子とにかく元気でやたら話しかけてくるから面倒なんだよ。 「君の名前、私がつけてあげる!」 って笑顔で言われたときは仰け反ったね。何言ってんの?って思わず聞き返しちゃった。 「僕は夕貴。奥村夕貴」 名乗ったら名乗ったで「夕貴」「夕貴」って煩いし。呼び捨てにすんなって何回言っても 「いいじゃん、堅苦しいことは言いっこなし!」 ってこれまた煩くてやたら明るい。ユカは親に殺されたようなものってオリフィエルは言っていたけれど、本当なのかな。虐待される子ってもっと暗いイメージがあるんだけど。 取り合えず次会うときは「久しぶり。元気にしてた?」って言葉を交わして、あとはユカの話に付き合うことにするよ。面倒だけど、オリフィエルが連れてくるっていうなら断るわけにいかないからさ。 天高く馬肥ゆる秋。 秋の空はいいね。1日中見ていても飽きないよ。澄んだ空に浮かぶ雲。その雲の上に僕はいて、澄んだ空気に身を任せてこの世界を泳いでいる。 冬がきて春になり、夏になって。それでも僕はきっとここにいる。何故ってこの場所を気に入ってるからさ。たまに訪れてくれるオリフィエルを待ちながら、過ぎゆく時に揺蕩うのも悪くない。
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