天使の晩酌

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 サークル仲間数人と吉祥寺駅前で飲んで解散したあと、僕は夜道で黒の長財布を拾った。手に取って中身をチラっと見てみたら大量の札束が入っていた。  周囲を見回したが誰もいない。どうしよう。中身を抜いて財布だけ置いていこうか。いや、このまま交番に持っていこう。 「ちょっとちょっと。もう少し悩みなさい」  周囲には誰もいない。 「私の声、聞こえていますか?」  知らない声が頭の中で響く。どうやら僕の脳内に誰かが語りかけてきたようだ。 「え?誰ですか?」 「天使天使。私は天使。普通は大金を拾ったら交番に届けるかネコババするかで悩むのではありませんか?あなたは一瞬悩んですぐ交番に届けると判断した。そしたら私の出る幕がないではありませんか。だからもう少し悩みなさい。私が、悪事を働いてはいけないと諭しますから」  僕の脳内で天使はわけのわからないことを言う。 「あなたが天使様?僕の脳内に話しかけているんですね」 「そうです。さあ、もう少し悩みなさい。届けるかネコババするかを」 「天使の発言とは思えませんね」 「でも、最終的には交番に届けなさい。悪事を働いてはいけませんから。さあ、悩んで」  天使はいい加減だ。 「あれ?今脳内で天使様のお姿を拝見しているのですが、酔っ払ってます?お顔がほんのり赤いですけど」 「あぁ、ちょっとね。あなたもお酒を飲んだでしょ。晩酌くらいいいじゃない」  天使がお酒を飲むということに不自然さを感じて僕は腑に落ちなかったが話を続けた。 「あれ?天使様は弓矢を持たないんですか?」  僕は脳内に映る天使様の様子について質問をした。 「あぁ、弓矢を持つのはキューピッドね。私たち天使は持たないの」 「天使とキューピッドって違うんですね」 「そうそう。私たち天使はキリスト教の神の使い。キューピッドはローマ神話の愛の神」 「へぇ。ちなみに、天使様は弓矢を持つことができないんですか?」  僕が何気なく聞くと、天使様は馬鹿にしないでと声を荒げたあと、冷静になって言った。 「別に持てないわけではないわ。ただ、弓矢は危ないでしょ。昔、思い切って弓矢を装備したのだけど、背中にしょって飛んでいると矢の先っちょが体のどこかしらに当たって痛いのよ。あと、天使が密集している所で振り返ったりしたとき知らない天使に当たって迷惑をかけるのよ。かといって弓と矢を手に持つと両手が塞がって不便でしょ?だから持つのをやめたの」 「そんな過去がおありなんですね」  そう頷きながら僕は交番に向かって歩いた。 「あ、ちょっとあなた、私が説得してるのに、しれっと歩いて交番に向かっては駄目じゃないの。もう少し悩みなさい。悩んでから交番に行きなさい」 「僕、忙しいんですよ。これから彼女の家に行かなきゃならなくて。さっさと用事を済ませて彼女に会いたいんです」 「あ、あなた、今彼女のことを考えているわね。いやらしいことを考えているわね。不潔よ。清廉潔白でいなさい」 「何が不潔なんですか?天使様は僕と彼女の愛を不潔だと思っているのですか?」 「いえ、私はただ、あなたが財布をネコババするのを断念させるために出てきたのに、全く悩まずに交番に届ける、と思ったら彼女のことを考えて邪念に塗れる。どっちつかずなあなたに疲れたのです。酔っ払ったついでに言いますと、お前うざい」  そう言って天使様は僕の脳内から消えていった。  その直後だった。 「俺は悪魔。おい、天使が消えた今がチャンスだ。その財布の中身だけ抜き取るんだ。そうすれば、バレることは。おい。人の話を聞いてるのか?あっさりと交番に届けやがって。頭の中が彼女のことで一杯かよ。ちっ。彼女のこと、大事にするんだぞ。今日はお前のおかげで美味い酒が飲めそうだ」  悪魔は僕の脳内に出てくるやいなや、天使のように微笑みながら消えていった。消える間際の悪魔の後ろ姿は、背負っている三叉槍がまるで愛の神キューピッドの弓矢かのように見えた。
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