一、わがままはほどほどにしとけよ

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一、わがままはほどほどにしとけよ

 まだ、春でよかった。 「ラリサお嬢様、そんな顔なさらないでください。ものは考えようですよっ」  幼馴染でもある侍女のシーナが、目をキラキラさせながら飛び跳ねている。 「この状況を、どう考えるっていうのよ……」  今、私は船に揺られている。  静かな湖畔……ならどんなによかっただろう。ここは、アーム海峡。世界的にも荒波で有名な外海だ。  公爵令嬢にふさわしく、いわゆる豪華客船……ならどんなによかったか。 「漁船に乗ったことのある上位貴族のご令嬢なんて、ラリサお嬢様くらいですよっ」  そうシーナが言い終わった瞬間、  ドシャシャーッ!  船に付いてるクレーンみたいな先の網から、勢いよく大型魚が私の真横に落ちてきた。 「そ、そうね。私くらいのものよね」  あまりの衝撃に、声も体も震えた。  小さな頃、意地悪なお兄様にブランコを押してもらった時でさえ、こんなに揺れなかった。  とっさに衛生的とはとても言えない黒ずんだ船べりにしがみつく。ドレスにかかった海水が、見る見るうちにシミとなって広がっていくのに気を落とす暇もなく、今度は目の前にピチピチと踊り狂う小魚が降ってきた。 「ラリサお嬢様、ご無事ですか? こちらにおつかまりください」  護衛騎士のレオンは、この揺れにも状況にも動じていない。 「お嬢ちゃん、そんなとこにいたら危ねぇぞ」  見上げると、船のてっぺんにいる上半身裸の男性がにらんでいた。さっき紹介された船長だ。船長にしては、やけに若い。  お嬢ちゃんだなんて、そんなこと言われたの、生まれて初めてだった。もちろん、足元で無数の魚がビチビチ跳ねているこの現状も。  表向きには貧困層がないとされる、リホン王国。小さな島国だけれど、豊かな資源と賢明な国王のおかげで他国に脅かされることなくきた我が国。  でもね、国王陛下は一つだけ重大なミスを犯したの。  それは、有力な公爵家の長女ってだけで、王太子殿下の婚約者に私を選んだこと。  あれは数年前のこと……と言いたいところだけど、実は遠い昔のようで昨日だった。  私、公爵家の長女であるラリサ・アリアナ・シビリテルは、婚約破棄を言い渡された。  貴族ってだけでは入れない王立シビリテル学園の卒業記念パーティーでのこと。  お察しのとおり、この学園は私のご先祖様が創った学校だ。婚約者であるオスカー・エイリアス・リホン殿下ももちろんのこと、私もこの日のためにあつらえた深紅のドレスに身を包んで会場にいた。長い黒髪と真っ白な肌に映える赤いドレス。リホン王国の国旗を想わせる、王太子の婚約者として完璧な装い。  無事に卒業できて、よかった。  私の心のうちは、これ一つ。  だって、全寮制の学園生活なのに、毎日のように王城へ「妃教育」を受けに行かなければならなかったのよ。一般教養は学園でも学ぶのに、それに加えて他国の文化、歴史に科学、音楽、行儀作法はもちろんのこと、かんたんな医術まで詰め込まれたカリキュラムは、私を発狂寸前まで追い込んだ。中には外国語やリホン王国伝統楽器であるリホンハープなど、楽しくできるものもあったけれど、全てをまんべんなく習得しなければならないということで、好きなことだけに専念できる日なんて一日もなかった。  その上、クラブ活動は必ずしなければならないっていう校則を守るため、週に一度だったけれど、ダンス同好会にも顔を出していたんだから忙しいったらなかったの。  そして何より、ほんとは私、この学園には裏口入学したのよね。学園創立者の家系っていうのと、王太子の婚約者ってだけで国内最難関と言われる試験はあってないようなものだった。でも入学すればそんなの関係ないから、王城へ行く馬車の中でも必死で勉強して、この五年間、なんとか落第しないようにがんばった。  つまり、私は優秀じゃない。どちらかと言えば、落ちこぼれ。  そんな私が王太子殿下の婚約者というのは、正直荷が重かった。  それでも努力をつづけられたのは、殿下が好きだったからだ。  ほとんど一目惚れだった。  オスカー殿下は、指に巻き付けたらそのまま高価な指輪になりそうな黄金の髪に、春風を想わせるような爽やかな緑の目が魅力的な方。初対面はまだ子どもだったこともありツンとしていたけれど、月に一度お茶会でお会いするようになってからは、いつだってやさしげに微笑んでくださった。 「王太子の婚約者として辛いこともあるだろうが、これからも支えてほしい」  一度だけ、こう励ましてくださったこともある。シビリテル学園に入学してすぐの頃だったかな。お話することはほとんどなくとも、毎日のように学園でお姿をお見かけできるようになり、その上にこんな一言までいただいたことで、私は舞い上がった。  ここ数年は互いに勉学が忙しくなり、お茶会は遠のいていた。でも、殿下も私と同じ思いなんじゃないかって信じてた。だって、毎年の誕生日には、私の好きなチョコレートを私の目の色にちなんでかラベンダー色の触り心地の良いリボンをかけて贈ってくださったから。  婚約してからの八年、私の机の上の小箱には、八本のリボンが収まっていた。これがあといくつたまれば結婚できるのかな、なんて眠れない夜は箱のふたを開いてはうっとり眺めたっけ。  学園に入ってからの目まぐるしい日々は、大きなことはなかったけれど、小さな棘は矢次に飛んできた。 「ラリサお嬢様は、いつまでもかわいらしい方でございますね」  これは、妃教育の先生であるシシャール伯爵夫人の言葉。つまり、私が幼稚で落ち着きがなく、年相応には見えない、ということなんだろう。 「見目麗しく成長なさいましたのに……」  私が十歳の時から始まった妃教育。かれこれ八年の付き合いになる。こんな物言い、公爵であり国の宰相でもあるお父様が聞いたら激怒なさるだろうけれど、自分でも納得してしまうくらい、私の内面は乏しかったので、気にしないふりをしてはにかむしかなかった。  だって、ここで怒り散らしたら、それこそ「淑女はいついかなる時も微笑みを絶やさない」という教訓を実践できないと示すことになってしまうもの。 「ラリサお嬢様は、お話になると幼さが際立ちますから、必要以上にお話はなさらない方がよろしいかと」  これは、この数年、毎回の妃教育の最後に述べるシシャール伯爵夫人の口癖だった。  つまり、品位を感じさせるような話し方ができないなら黙っていなさい、ということだ。だから私は、数か月に一度になったオスカー殿下とのお茶会でも、必要最低限しか言葉を口にしないようにしていた。  ひたすら聞き役に徹し、感じよく相槌を繰り返す。「関心」よりも「感心」を大切にするように教えられてきたので、興味ある事でも深くは聞かず、とりたててすごいと思わないことでも「すばらしいですわ」を欠かさなかった。  この一年、私も少しは成長したのか、 「殿方は……その……ギャップというものに弱いとも聞きますわ。きっと王太子殿下もかわいがってくださいますよ」  シシャール伯爵夫人は時々こう言って、私のフォローというよりは取り繕うようになった。けれど、眼鏡の奥の切れ長の目はやっぱりとても笑っているようには見えず、私は表情を崩さないように気を付けながら紅茶に目を落とした。  学園生活は、淡々と過ぎた。  できるだけ声を発さないように気を付けた結果、挨拶程度の知人しかできず、友人と呼べる人は学園に一人もいなかった。私の公爵令嬢という地位にあやかりたい人だけが周りにいつも数人いて、孤立するよりはいいと割り切ってはいたものの、夜は寮の部屋で泣いてばかりいた。  それもこれも、私がどんな噂も蹴散らせるくらい優秀であれば、王太子殿下の隣に立つ身として周りから認められるような秀でた者であれば、なんてことないはずだったんだ。  もう、がんばれない。  まだ、がんばれる。  こんな気持ちを小さい頃に遊んだシーソーのように考えながら、眠りに落ちる日々だった。  そんな気が弱くて、幼稚で、勉強もできず、これといった特技もない私が、知らないところで「性悪令嬢」だと噂されていたなんて、夢にも思わなかった。 〈わがままはほどほどにしておけよ〉  最終学年に入ってしばらくした頃、こんな文面の手紙が、四つ上のセドリックお兄様から届いたのだ。
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