7人が本棚に入れています
本棚に追加
#1 西紅柿炒鶏蛋(トマトと卵炒め)
地下鉄に乗り換えて、イヤホンを両耳にねじ込んだ。テイ・トウワ の「The Burning Plain」を再生する。電子音のイントロのあと、高橋幸宏の歌声が滑らかに耳の奥に流れてゆく。ユキさんのカフェに行くときは、この曲を聴きながら歩いていた。
「店長さんは、何でユキさんって呼ばれてるんですか」
と尋ねた時に、
「俺、名前ユキヒロだから。YMOのタカハシユキヒロと同じ漢字だよ」
と言われたから。
俺が、わいえむおー、と呟いたら、ユキさんは衝撃を受けていた。
「嘘っ、ミライくん YMO知らないの?」
「世代じゃない、ってやつですかね」
「いやいややめて俺だって YMO世代じゃないから。ていうか YMOは全世代共通だよ。ミライくん何百年も前の絵だけど『青い牛乳の女』知ってるでしょ」
その絵はたぶん「青いターバンの少女」と「牛乳を注ぐ女」がコラージュされている。そして、言わんとするところは分かるが、それならTheBeatlesとかQueenの方が喩えとしては適切だ、と思う。そんなやり取りをした日から、もう一年半経ち、俺は先月十九歳になった。
この地下鉄の沿線にユキさんのカフェはなく、その代わり彼の自宅がある。日曜の二十一時半に、郊外から都心側に向かう地下鉄に乗り、友達とは違う関係になったばかりの人の住む駅に行く。俺は今、地下鉄と同じ速度で大人になっていく。空席の目立つ車内で、ちっとも座る気にならずドアにもたれ掛かった。
改札でユキさんと落ち合った。向かい合い、少し顔を上げて彼の額を見れば、店ではきちんとアップにしている前髪が、少し崩れて眉間にかかっている。おつかれ、とシンプルな会話を交わし、ユキさんの左側に立って歩き始めた。白いノーカラーのシャツから流れ出す、コーヒーのこうばしい香りが鼻を掠めた。
長い地下通路を抜けて、道路脇に溜まる桜の花びらを避けながら、駅前の中華屋「楽楽」に向かった。ビルの一階に、赤地に黄色で「中国酒家 楽楽」と書かれたデカい看板が掲げられている。ドアを開けた瞬間から、オイスターソースとニンニクと胡麻油の香りに取り込まれた。コーヒーの香りがどうのとか一気に吹っ飛んだ。
入り口すぐの壁際の四人掛けの席に座った。壁際四卓、中央にも四卓と、気取りのない町中華屋の雰囲気の割に広い店内。それに比例する分厚いメニュー表を開く。冷菜だけで一ページあった。圧倒されるとともに、俺は物凄く腹が減っている、ということに気が付いた。どうしよう、まず肉料理から決めるべきか、大人しくメニューの頭から見ていくべきかと思案していたら、ユキさんが
「ねぇ、この店マイコー御用達らしいよ」
と言った。
俺は(はいはいまた出たよ)と思う。本日一発目のすっとぼけ、今回は「全然一般化されてない名詞を会話に放り込む」だ。全くいつもの調子と変わらない。わざわざ自分の成長や俺達の関係性の進展を地下鉄の速度に重ねた俺のセンチメンタルを見習ってほしい。
メニューから目を上げずに聞いた。
「マイコーって何」
「えっ勘弁してよ、ミライくん知らない? また世代がどうのとかってやつ? 知らないかぁ、キングオブポップ」
「……ジャクソン家の方ですか」
「なんだぁ、知ってるじゃん! マイケル・ジャクソン」
「そこはマイコーって言わないのか」
それはちょっと違うんだよねぇ、と言って、ユキさんは勝手にメニューの吟味に戻った。ミライくん、何か食べたいのある? と聞かれたが、まず何があって何がないのかすら分からない。ここは、キングオブポップの力を借りるべきだ。
「マイコーさんは何食ってたの」
「え、知らない」
俺は空腹時の切実な数十秒を、「マイケル・ジャクソンをマイコーと呼ぶ人が居る」という情報を入手するためだけに使ってしまった。
「……調べとけや」
「うわっ、口悪っ。そういうのさ、ミライくんは未成年だとかお友達だと思ってた俺はスルーしてきたけどさ、彼氏となった俺は何て言うかな」
「最後矢沢栄吉みたいだったな」
「『僕はいいけどYAZAWAは何て言うかな』ってやつね。いいよねあれ。無意識だったけど使えて嬉しいなぁ。ていうか、それは知ってんだね。ミライくんの世代感ってどうなってんの」
もうニコニコしている。カリスマのお陰でユキさんへの不遜な態度から論点を逸らせた。しかし毎回こうしてやり過ごすわけにもいくまい。俺は、「尊重」と「尊敬」を態度で示す、ということを覚えなきゃいけない。
「ごめんね」
おっ、とデカめのリアクションをして、いいよぉ、と言われたのでこの件は終わったことになった。
「で、何食う?」
「せっかくだからマイコーと同じもの食べたいよねぇ」
「いや、分かんないじゃんだから」
間が開いた。うわ、今のもぞんざいな口調だったか?とひやりとしたが、返ってきた答えは壮大だった。
「この店のメニュー全制覇したら、絶対マイコーと同じもの食べたことになるよね」
正気か。そういうテレビ番組あるけど。
「そこまでして、マイコーと同じもの食べたいのか」
「キングオブポップだからねぇ。いや、今日明日の話じゃなくてよ?ここ来るたびに別のメニュー食べていけば、いずれマイコーに辿り着くじゃん、って話」
辿り着く、って、中華食ってたらムーンウォーク出来るようになるのか。そもそも俺のマイケル・ジャクソンの最高知識はムーンウォーク止まりだ。でも、マイコーはさておき、色々食べてみるのは悪くない。
「いいよ、じゃ、頼んだ料理メモしていこう」
おっ乗り気だね、と嬉しそうにしている。相手が嬉しそうにしていればそれもまた悪くない。ユキさんが笑うと、右の口元に小さな窪みができる。俺は会うたびに、これが笑い皺なのか笑窪なのかを知りたい、と思っていた。
ひとまず今回は、それぞれが食べたい料理と炭水化物メニューの計三品を注文することになった。
「ミライくんはさ、肉の国と魚介の国、どっちを統治したい?」
「壮大にすんなよ三国志意識してんのか?」
「わーホントだ。俺今日冴えてるなぁ。で、肉と魚介どっちがいい? ミライくんに選択権をゆずりますよ」
悩ましい所だ。レバニラとかホイコーローとか、絶対間違いない定番どころを選びたければ肉国を攻めるべきだ。しかし、このあたりのオーソドックスな料理であれば、ユキさんが肉国を統治した場合にも手に入る可能性は非常に高い。となれば、俺は、肉国よりは若干個性的というか、変化球なメニューの多い魚介国を統治しよう。
「魚介王」
「おっけー、じゃあ俺肉王ね!」
メニューという地図の、魚介国エリアを見ていく。海鮮XO醤炒め、揚げ太刀魚。
「うわ、やべぇ」
「どうしたの?」
「ここのエビチリ、車エビだ……」
ユキさんが右手を口に当て、うそっ……と言って息を呑む。俺の、いやたぶん俺達の、楽楽への信頼度が急上昇する。
「どうする、今日行くか? エビチリ」
「いやそこはさ、魚介王に任せるけど……でも、隣国の王として一言いい?」
勝手に首脳会談始まってるけど、もうそんなことはどうでもいい。
「今日は、小手調べと行きませんか」
「まぁ、確かにな。バトル漫画だったら、車エビのエビチリは、五巻あたりで登場するやつ」
「ごめんね、出過ぎたこと言って」
「いやいや、やっぱり客観的な意見は大事だから」
隣国からの提言を受け、俺は、手堅い「イカとセロリの黒コショウ炒め」を選んだ。母さんがエリア内異動になり、俺は一人暮らしを始めたばかりなので、隙あらば野菜を摂っておきたい、という気持ちもある。肉王は、俺に冷静に提言した割に、苦悶の表情を浮かべながら熟考している。
「うん、決めた。『トマトと卵炒め』これにしよう」
「ちょっと審議」
「……やっぱり見過ごさなかったね」
これは、審議すべき案件だ。トマトと卵炒めは、卵・豆腐類国の兵である。
「ねぇでもさ、卵は、我が国の鶏大臣の子どもだからね? ほぼ我が国みたいなもんでしょ」
「そういう考え方する国がさぁ」
言いかけて、語弊ある言い方にしかならなさそうだ、と口をつぐんだ。
「ていうか俺、コレ食ったことないわ」
「うっそ。超おいしいよ? これはもう、一国の王としてではなく、一人間として言わせて。ミライくん、食べたほうがいいよ」
久々に、王という立場を離れて考えれば、長らく片想いし、ようやく付き合えた人が俺に食べて欲しいと言っている料理は、是非食べておきたい。
「分かった、じゃあ、イカとセロリの黒コショウ炒めと、トマトと卵炒めな」
最初のコメントを投稿しよう!