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第二話 女児の招き
私が連れて行かれたのは、どこかの施設のようだった。戸惑いよりも状況への好奇心が勝ってしまった私は、すぐにその生活へ順応して行った。
個室を与えられ、朝目覚めると迎えが来て大部屋へ連れて行かれる。そこで多くの男性たちとともに軽作業に携わった。言葉がわからないなりに、身振り手振りでの説明や他の人の作業内容を見ればすぐに理解できる。初日、作業の説明が書かれた壁紙の内容を理解できるようになった。読み方の発音はわからないが、言語としての型はおおよそ理解した。
食事は日に二度。一度目は大部屋から移動して皆で摂る。食事と手洗い場の単語はすぐにわかった。これで生活上困ることはない。二度目は作業を終えて、自室へ戻った後。人々の声が聞こえて廊下に出たら、食事に向かうようだった。いっしょに向かうように身振りで示されて従った。
言葉がわからないので、自然に私は口数少なくなる。なので気にかけて世話を焼いてくれる人はいるが、話しかけて来る人はいない。よって詮索されることはなく、一挙手一投足に気を払う必要もなかった。柑橘系の香りなのに、味が胡椒のマッシュポテトのようなものもあって、食べ物ひとつを取っても驚きの連続だ。
穏やかだった。私が物心つき、今に至るまで、望んでも得られなかった平穏だ。食事を終えて自室に戻ったとき、感極まって私は少し泣いた。
私には、おおよそ個人としての尊厳が認められたという経験がない。
生まれは、産業革命から五十年余りを経た1898年のアメリカ、ニューヨーク。父ボリスは、農民に読み書きを教えた罪により政治犯とされ、帝政ロシアから難を逃れて来たユダヤ系の心理学者。母サラもまた、ユダヤ人への集団的迫害行為を逃れて来た者だ。二人は出会い、そして私を『造った』。
私に施されたそれは『早期英才教育』と呼ばれている。体罰を伴わない子育てなど、当時としては異色過ぎてかなりの批難の的であったらしい。
よって、彼らはその『成功』をすべて明らかにした。私が生後半年で言葉を話せば新聞社へ電報を打ち、三歳でタイプライターを使いこなしたときには特集記事を組んでもらい、四歳でホロメスの原書を読みこなしたときには雑誌からの取材を受けた。六歳のときには七カ国語の読み書きができたし、八歳までに六冊の本を執筆した。それらは両親の教育の成功として、きらびやかに報道され続けた。私の人生を代償に。私は、これまでの人生において私を知らない人に出会うことがなかった。
ここでは、違う。誰も知らない。私のことを、誰も知らない。その事実ひとつから、心の底からの安らぎを得る。脅かされることなく眠りに着き、カメラのシャッター音に飛び起きることもない。希望を持って朝を迎えられる。それは、私にとってすばらしいことだった。
夜も更けたころ、私はなにか読み物を探して廊下へ出た。興奮して眠りに着けなさそうだったのだ。部屋に吊るされていたのは三角錐のオイルランプで、いくらか触ってみたら使用できた。それを持って静かで暗い中を照らす。
本の形をしていなくてもいい。文字が書かれていれば、なにかしら法則性をそこに見出して解析できる。壁際に刻まれた文字や貼られた紙を照らし、貪るように読み込んだ。オレンジ色のポスターに書かれた内容は、就業時間等の規則についてだとすぐに当たりがついた。どうやら時間の数え方は、私がこれまで考えて来たものと同じようだ。であれば、暦もすぐに作れるだろう。
筆記用具が欲しいと切に思う。自室にはそも、机などの筆記に適した環境がなく、紙やペンなどもなかった。書き留めることはできなくても記憶はできる。私は脳内で単語の一覧表を作り、それぞれの用法などの注釈を加えて行った。
しばらくの後、肩に手を置かれて声を上げて驚いてしまった。振り返ると、同僚の男性だった。そちらもまた驚いた顔をしている。やってしまった。考えに深く入り込みすぎて、誰かがやって来ることに気がつかなかったのだ。私の悪癖のひとつだ。
彼は身振りでなにをしているのかを尋ねて来た。私は私の言葉で「文字を覚えようとしていたんだ」とポスターの単語を指でなぞりながら伝えた。なんとか理解してもらえたように思う。
私は、ポスターに書かれていた四つの単語の読み方を身振りで尋ねた。彼は発音してくれて、私はそれで得心でき、オレンジ色のポスターを最初から最後まで読み上げた。多少たどたどしくはあったと思う。男性は呆気に取られた様子で私を見た。少しだけ得意な気持ちになってしまう。
その隣りに貼られていたポスターを指し示される。ざっと目を通し、わからない読みの単語を指差す。彼は読み上げてくれる。そして私がまた、頭から終わりまで口ずさむ。それを、もう一枚やった。
発音だけならするするとできるようになった。しかし、単語の意味を知っているわけではない。辞書があればよいのだが。どうにか手振りで辞書が欲しい旨を伝えようとしたが、どうだっただろうか。彼は深く感じ入った表情でうなずき、私を私の部屋まで送って行った。そして何事かをつぶやいて去って行った。きっと夜半のあいさつだろう。私は達成感を覚えて床に就いた。深い眠りだった。
翌朝。私は窓から入る日差しに起こされるという、とてもさわやかな目覚め方をした。用を足しに廊下を出て自室へ戻ると、昨夜の同僚男性と管理者側の男性がドア付近で所在なさげに立っている。私が不在だったからだろう。私は小声で「おはようございます」と言って近づいた。
管理者男性がなにごとかを私へ言ったが、昨夜見た単語と接続詞がいくつかあったと理解できただけで、内容まではわからなかった。そして作業場ではなく違う場所へと連れて行かれた。同僚男性とは部屋の前で別れた。
窓の大きな、白い壁の小部屋だった。机があり、たくさんの書類が並んでいる。筆記具と思しき細長い黒い棒もある。そこには見たことのない、髭を蓄えた男性が座っていて、私は向かい合わせるように椅子へ座らされた。管理者の男性は立ったままだ。
髭の男性は自分を指し示した。そして「シク・ペッ」と言う。次に私を指し示した。名を尋ねられたのだと思い、私は自分を指しながら「ウィリアム・ジェイムズ・サイディス」と答える。男性は唸った。
男性は首を横に振りながらなにかを書きつけた。その筆記の様子をじっと見ていると、少し居心地悪そうな表情をされた。そして、その書類を半分に折り、さらに三分の一に折るという特殊なたたみ方をして私へと差し出してくれた。受け取り、中を見ようとしたが、それは止められた。
管理者男性に着いてまた別の場所へ向かう。今度は施設の外で、動力源が不明の浮かんだ真四角の箱に乗せられる。管理者の男性も乗って、一方向を向いてその辺に両手を置いた。すると発進する。私は驚いてしまった。なんだ、これは!
かなりのスピードで動いているのに風を感じない。それに、通行人たちが意に介さないところを見ると、これは一般的な移動方法なのだろう。私は思わず笑顔になる。
ここに来てからというもの、心の底から楽しいことばかりだった。不安が全くないわけではない。けれど、知らないことやこれから理解できることへの希望が勝って心が弾む。こんなことは、これまで私の人生ではあり得なかった。
目的地に着いたとき、管理者の男性は降りるように私へ促した。おっかなびっくりだったが、それを察してか四角い箱が地面すれすれまで下がってくれた。察してくれるってなんだ。私は笑ってしまいそうだった。
着いた場所は、やはりメトロポリタン美術館のミニチュアみたいな家だ。管理者男性が戸口に下げてあった木槌で、木製の板を何度か叩いた。それがチャイムなのだろう。それほど待たずに戸口が開いて、中から白髪の痩せこけた老女が出てきた。彼女は管理者と私を、交互に睨みつけるように見た。
管理者は何事かを老女へ告げる。老女は私を見て、喉詰まりをしたような笑い声を上げた。私は怯んでしまったが、管理者に促されて彼女の前へ出た。そして、髭の男性が書いてくれた文書を渡す。
ひったくるように彼女は私から文書を奪った。開けて中身を熟読する。じっと私を頭から足元まで見て、なにも言わずに家の中へ引っ込んだ。そしてしばらく後に、身支度をした状態で出てきてどこかへ去って行った。
管理者は苦笑いをしている。そして私に中へ入ろうと身振りで示した。私は言われるままそれに続いた。
なんの変哲もない民家のように思えた。なにに使うのかわからない物で溢れていたけれど、それは私がこちらの文化を知らないためだ。ひとつずつ部屋を覗いて、最後の部屋へ行き着いた。
管理者男性が中へ声をかけた。いとけない声が聞こえた。私は男性に続いて中に入る。そこには床に座った女児が居た。
女児は私を見上げてじっと見た。そして「ウィリア?」と尋ねて来る。私は「ウィリアム」と自分を示して言った。その瞬間、破顔した女児が私へと飛びついて来た。慌てて私は抱き留めた。
「ウィリア! ウィリア! ウィリア!」
「ごめん、私はウィリアムだよ。ウィリアム!」
私がそう言うと、女児は少し考える仕草をしてから部屋の隅へ向かった。おもちゃ箱みたいな雑多な物入れから、ごそごそとなにかを取り出す。そして手にした輪を、頭からかぶって首にかけた。なんの遊びを始めたのだろうか。
「はじめまして、うぃりあむ。わたしはバターク。ことばがわかりますか?」
はっと息を呑んだ。たどたどしいが、私が生まれ育った、ニューヨーク訛りの英語だ。私はこの街に来て初めてしっかりとした意思の疎通を図れるのが、幼い子どもだということに気を払うこともせずに「わかる、わかるよ!」と言い募った。
「よかったです。うぃりあむ。あなたは、わたしがよびました。わたしにひつようです」
「呼んだ? どういうことだろう。私は、気がついたらこの街に居たんだが」
「あなたは、しぬところでした。わたしは、あなたがほしかった。だから、こちらにきてもらいました。いいですか?」
管理者男性はもぞもぞと、所在なさ気な様子をしている。私は彼女の言葉の意味はわかるけれども、内容の理解ができなくて困惑した。何度かやり取りをしてから、しびれを切らした女児が、首にかけた輪を管理者男性へ押し付けた。彼は女児になにかを言われるままに、それを首にかける。
「あー。あー。本日晴天なり。あの、僕の言葉はわかりますか?」
「はい! はい、わかります! 綺麗な標準英語です!」
思わず前のめりに言ってしまう。管理者はたじろいで私を見たが、居住まいを正して言った。その内容は信じ難いものだった。
「――よかった。僕はナト・ルーです。ウィリア……ム? あなたは、このバタークという少女に養育者として選ばれました。彼女は、自分と同じくらい賢い父親が欲しかったのです。それで、こちらの世界へあなたを呼びました。あなたは元の世界では亡くなったことになっています」
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