天使症

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「あなたは天使になりつつあります」 「……は?」  ある日、病院を訪れた男は、医者からそう告げられ、思わず空気が抜けたような返事をした。『天使になりつつある』とは、何かの比喩だろうか。余命わずかとか、そういう意味で……。   そう考えて男は背筋が冷たくなったが、医者の説明を聞いているうちに、それが文字通りの意味だと理解し始めた。 「……いや、やっぱり意味がわかりません」 「数か月前に初めて海外で確認された症例なんです! おっと、失礼。つい興奮してしまいまして、ははは……。いやあ、珍しいケースなんですよ。信じられないかもしれませんが、あなたも体の異変に気づいて来たんでしょう?」 「まあ、それはそうですけど……」 「えー、今現在の症状は、時々体が透ける」 「はい。見間違いかと思ったんですけど……」 「時々、頭の上に光の輪が現れる」 「はい。これも目の錯覚かなと……」 「背中に小さな翼が生え始めた」 「はい。イボかと思ったんですけど……」 「いや、どう考えても天使でしょう」 「はい……」  認めざるを得なかった。医者と話している間も、頭上に光の輪がちらつき、室内の照度をわずかに上げ、医者の表情までも明るくしたのだ。最近、国内でも同様の症状が報告され始めたらしい。白い翼や光輪が体に現れ、徐々に天使のようになっていくという。 「それで、天使になるって結局、僕はどうなっちゃうんですか……?」 「きっと人々に幸せをもたらす存在になるのではないでしょうかねえ」  医者は興奮しすぎて疲れたようで、ほのぼのとした顔でそう言った。それに対して男は、またしても空気が抜けたような返事しかできなかった。  その後、男の背中の翼は少しずつ大きくなり、頭の光輪も消えることなく残り続けた。周囲の人々は最初こそ驚き、距離を置いたが、すぐに彼を褒め称え始めた。当然だ。天使を虐げたら、後にどんな天罰が下るかわかったものではない。 「今まであまり話したことなかったけど、前から良いやつだと思ってたんだよなあ」 「それ、俺も思ってた」 「確かに。あっ、少し厳しく指導したこともあったけど、上司として仕方なかったんだよ。わかってくれるだろ?」 「天使になったら、俺に幸運をもたらしてくれよ。なあ、なあ」 「会社にだろ? ついででいいから俺にもさ……」 「私は素敵な彼氏をお願いね」 「新しい自転車が欲しいんだけどさあ。いいよな? 散々面倒見てやったろ?」 「ギャンブルで勝たせてくれ! 頼む!」  周囲からの期待の声に、彼はまた空気が抜けたような返事をするしかなかった。心の中では不安ばかりが膨らんでいたが、それを相談できる相手もいなかった。  本当に天使になってしまうのだろうか。もしそうなったら、何をすればいいのか。そもそも、なぜ何の取り柄もなく、頭も悪く、人から馬鹿にされてきた自分なんかが天使に……。  気持ちが沈む一方で、彼の体は徐々に宙に浮き始めた。光輪はますます輝きが増したが、彼の姿は周囲から見えなくなった。  そしてある日、彼は完全に天使となり、翼を広げて、大空へと舞い上がった。  空から地上を見下ろした彼は、自分が天使になった理由がわかった気がした。  ――たぶん、選ばれたんだ。   地上を歩く人々の額には、悪魔のような角が見えていた。
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