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「どうしたの? さっきは楽しそうに眺めてたけど?」
ウサギが近くの草を食べているので娘はそちらに付きっ切り。僕は妻の横に並んでウサギとたわむれる天使を眺める。
「んー。ちょっと考え事。だから、教えなーい」
「なんだよそれ。格好良い俺に惚れ直したんならそう言いなよ」
今も僕と彼女は娘から目を離さないようにしながら会話を楽しむ。
「それは、無いかな。どちらかと言うと君に言いたいくらいだ」
今の言葉に少しクスクスとした笑いが含まれている。
「俺は、そうだよ。さっき思ったんだけど、君にはお礼を言わないとダメだね」
少しトーンを落として僕が言うから、彼女が驚いた表情をこちらに向けている。それがわかっても僕は横を向くのは照れ臭い。
「いつも迷惑をかけてる。もっと楽な暮らしをさせてあげれば良いのに。ごめんね。それで、ありがとう」
この言葉はある意味でかなりの勇気が必要だった。かなり疲れた気がする。
「へー、そんなこと思ってたんだ。ちょっと驚き。だけど、要らないよ。お礼なんて」
全く本当に良くできた妻だ。当然のことだからこういうのだろう。
「そりゃあ、もっと家事を手伝ってくれたら嬉しいし、稼ぎだって期待してない訳じゃない。だけど、あたしの幸せは他にあるからね。君のプロポーズとは違うのだよ!」
バンバンと肩を叩かれる。そうじゃなくても今の手伝いと稼ぎの部分で僕はダメージを負っているのに。
更に求婚の時まで話すのだから。もうこれは僕の負けだ。言い返しようがない。
「降参。その話は辞めて」
呟いてるくらいにしか返せない僕を見た彼女は、ニタリと悪い顔になっている。
「軽くあのときを話そうか! 懐かしいから。あたしは、幸せだったよ」
古い記憶には刃がある。痛みが蘇る。誰かにとっては楽しいことなのにそれはもう痛い。
過去僕は彼女に求婚した。まあ当然ではあるけど。
その時は必死だったのを覚えている。彼女以外に結婚したい人なんて全く思いつかなかったからだ。
「結婚っていうのはだな、時が訪れたからするもんじゃないぞ。男のほうから気合で乗り切るしかないんだ。お前たちも付き合ってる人がいるならプロポーズをちゃんと考えておけ」
これは酔った上司の言葉だ。
まだ新人の範疇にいた時の僕はどうしてかその言葉を聞いたときに焦った。
そうもうずっと付き合っている彼女がいたから。当然それは結婚することになる今の妻のこと。
「一体どうしたのよ。急に呼び出して!」
飲み会の帰り僕は酔っていたのを理由にして、求婚することにした。
なんにも用意してない。それでも伝えておきたかった。
僕の心を。
「俺は君を愛してる。ずっと一生一緒にいたいんだ! 苦労させない。楽な暮らしをさせる。だから、結婚してください」
酔って呂律もまわってなかったのに、上司の言葉を聞いてからずっと考えていたのですんなりと言えた。
「ふーん。そういうことってシラフの時に言わない?」
「あの、まあ。それは、そうなんだけど」
当たり前なことを彼女に言われて、僕はさっきまでの自信をなくしていた。
「それで? 指輪は?」
彼女に言われて「へっ?」としか言葉がない。
求婚なのだ。もちろんそんなときにはエンゲージリングが必要。
飲み会から宝石店に寄ったところで閉まっている。
「用意できなかった」
シュンとして僕は俯くしかなかった。
「思い付きだけでプロポーズしてんのか! ちったあ考えろよ!」
彼女が怒るのも当然だろう。僕があまりにアホだ。
こうなるともう僕は言える立場にない。
ふくれっ面で僕のことを睨んでいる彼女を眺めているだけだった。
「まあ、しょうがいないか。結婚はしたいし」
ため息と一緒に彼女が呆れた顔になる。
「別に君になんてなんの期待もしてないよ。ただ結婚はしてあげる。あたしも好きだからね」
やっと笑う彼女だったけど、その時にはもう少し照れ臭そうにしている。
そうだあの時の彼女の笑顔は天使だと思っていた。
僕は忘れていることが多い。
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