多様性の森

1/1
前へ
/1ページ
次へ

多様性の森

   鳥の囀りさえもしない夜の森で、月の光だけを頼りに男は慎重に歩いていた。木々は男の侵入を密やかに囁くように音を立て、冷たい夜風が木々の間をすり抜ける。息が詰まるような静寂が、男の背中をじわじわと汗で濡らしていった。 「なんで俺がこんなことしなくちゃいけないんだよ」  吐き捨てるように言った文句は、虚しくも夜の闇に吸い込まれていく。男がこの森へ足を踏み入れた理由はただ一つ。友人たちとのゲームで負けた代償に、噂の「人喰い鬼」が棲むという森に足を踏み入れることになったのだ。人喰い鬼なんて信じていないつもりでも、森の暗さと不気味な静けさに心が萎縮する。男は早く抜け出したい一心で足を早めた。  パキン、と音を立てて足元の小枝が折れる。瞬間、森の奥からとんできたものが男の脇腹に直撃し、近くの木の幹に叩きつけられた。その衝撃は、まるで大型のトラックにでも轢かれたのかと錯覚するほどだ。  苦悶の呻き声を上げながら何事かと目を開けば、巨大な単眼が冷たく光っている。  男の顔の二倍はあるであろう目玉に自身が獲物として映っていることを悟ったとき、男の背中を冷や汗が伝う。全てを飲み込むかのように異様に裂けたその口は、得体の知れない威圧感を滲ませながらゆっくりと弧を描いた。 「悪く思うなよ、人間」  地獄の底から響くように低い声が森の闇にこだまする。鬼は大きな手で男の体をがっしりと掴み、ほんの少し力をこめるだけで骨の軋む音が男の鼓膜を揺らした。 「なんでこんなことに……」  男は己の不幸を嘆く。自分は罰ゲームで、来たくもない森に来ただけだというのに。 「我々はこういう生き物なのだ。諦めろ人間」  そう言って鬼は大口を開ける。尖った歯が何重にも生えており、人間の胴体など簡単に食いちぎるだろう。  自分の上半身がぶちぶちと音を立てて食いちぎられるのを想像して男はブルリと身を震わせた。  死にたくない。そんなことになってたまるかと、今出せる最大限の声を男は絞り出す。 「待ってくれ! 話を聞いてくれ!」  震えていて、お世辞にも大きな声ではなかったが、鬼は開いた口を閉じる。ギョロリと大きな目玉が男の顔を見つめた。 「なんだ、遺言か?」 「いや違う……」  鬼は不快そうに目を細めたものの、全く話の通じない化け物ではないらしい。男は未だかつてないほど回転する脳に、一種の万能感すら感じていた。手の震えを抑えながら、なるべく怯えていると悟られないように続ける。 「これは本当にお前の意思なのか?」  何を言っているのか分からない、と言いたげな表情で鬼はこちらを見た。 「お前は『我々はこういう生き物だ』って言ったよな」 「確かに言った。だがそれがどうした」 「お前はどうなんだ。『我々』ではなくて『お前自身』は」  鬼は驚いたように目をぱちくりさせる。 「人間を好んで食べているのか? そういう生き物だからってなんとなく食べてるんじゃないか?」 「ううむ……」  鬼は困惑したように眉をひそめ、自身の顎を撫でる。  この男の言うことは確かに正しい。事実、人間よりも木の実の方がずっと美味しいし、娘も好んで食べていた。 「確かに、習慣的に食べていただけで理由はないな」  鬼の返答に手応えを感じた男は、追い打ちをかけるようにさらに続ける。 「今は多様性の時代だぞ。人間を食べない化け物だっていてもおかしくない。そういう生き物だからっていう固定概念は捨て去るべきと思わないか? お前だって、お前自身の生き方を選べるはずだ」  今までにない考え方に、鬼は深く考え込む。この男は鬼を恐れていない。こうして怯えずに話しているのも多様性というもののおかげなのだろうか。  昔の人間は怯え、泣き出し、最後には鬼を罵った。人間はそういうものだと思っていたが、人の世の移り変わりは存外早いらしい。それに、別に怯えさせるのが目的でもないのだ。  そんな鬼に、できる限りの優しい笑みを浮かべて男は続けた。 「お前は個性を尊重され、俺は生きながらえる。お互いに損はないだろう?」  しばらくの沈黙の後、鬼は頷く。   「確かにそうかもしれん。……人間は優しいのだな」  そう言って体を掴む手が緩んだのを、男は見逃さなかった。すかさず鬼の手に思いっきり噛みつく。口の中に鉄の味が広がり、あまりの硬さに顎が痛む。 「ぐぅ!」  低い唸り声と共に、痛みで鬼は手を引っ込めた。食いちぎられはしなかったものの、手の甲にはしっかりと小さな歯形がついてる。 「騙したな人間!」  鬼は真っ赤な目でギロリと男を睨みつけ、反対の手を男の頭目掛けて振り下ろすが、その手は空を切る。近くにあった木の幹は大きく抉り取られていた。  もし直撃していたら、人間の頭など簡単に吹き飛んでいただろう。男は背中がヒヤリとするのを感じながらも、全速力で駆け出した。 「殺してやるぞ! 殺してやる! 喰ってやる!」  憎々しげに叫んだ鬼の声と、男の笑い声が夜の森にこだまする。 「はは、悪く思うなよ! 人間ってのはこういう生き物なんだ!」  男は闇の中に消え、鬼の咆哮が轟く。  静まり返った森にはただ月だけが光を落としていた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加