3人が本棚に入れています
本棚に追加
第二章:ミセス・ブラックウッド
「なに? なぜ、そんなにジッと見る?」
「え? いや、ごめん」
彼女はすこし低めの落ち着いた声で、浅野に尋ねた。
ぶっきらぼうな英語で問われた浅野は、自分が彼女を凝視していることに初めて気づいた。慌てて、何か話さなくてはと思い、言葉を発した。
「君、名前は? 」
「客に物を売るのに、日本じゃ名前を教えないといけないの? 」
彼女は少し顔を斜めにして、逆に浅野に聞いた。
海風が強く吹いて、ノンラーの下の長い髪が靡いた。彼女の視線は冷ややかで、それが浅野の気持ちをさらに焦らせた。美形な顔立ちも、さらに冷たい視線の威力を増している気がする。
「え? いや、ちょっと聞いてみたかったから」
彼女は表情をまったく変えなかった。むしろ、すこし怒っているようにも見える。浅野はさらに焦った。
彼女は口を開いた。
「ただ、ここでお土産を売っている女。私の名前を知ってどうする? 」
「いや、どうするって…… オ、オレはユウイチ・アサノ。日本から来た」
機嫌が悪そうな彼女に、浅野は間髪入れずに自己紹介した。もうその程度の会話しかできない空気だった。
当然のように、彼女はあまり興味を示してくれなかった。
「やっぱり日本人か」
「え? ……なんで日本人だって分かった? 」
「わかる。お金を渡して『こっちに来るな』って言わないから」
やっと彼女からリアクションがあった。
だが、浅野はイマイチ、彼女が言ったことにピンと来てはいなかった。
「えーと…… どういうこと?」
「同じ金持ちでも、ここに来てる白人はそうする。他の東洋人もそう。でも、日本人はしない。だからわかる」
「ふーん、そうなんだ…… 」
実は、この時点でも浅野はピンとは来なかった。
あとで加治川に聞いた話だが、お金を持っていそうな観光客は、バカンスを物売りたちに邪魔されたくないとばかりに2〜3ドルを渡し、こちらには来ないでくれというのが定番らしい。まさに「厄介払い」である。
だが、日本人は物売りを拒むのが下手らしく、物売りたちを邪険に扱わないから人気なのだそうだ(もっとも、なにかしら買ってしまうことも好かれている大きな理由だと思うが……)。
「アクセサリーがいろいろあるから、買いなよ」
彼女は笑顔もなく、首からかけている立売箱の中身を浅野に見せた。中にはどこで拾ってきたのかもわからないような木の実で作られた、ブレスレットやペンダントがたくさん入っていた。浅野はすべての商品を眺めた。よくみると一つ一つ品質の差があり、完成度はバラバラだった。
「これいくらなの?」
咄嗟に浅野は声に出してしまった。というのも、とてもお金を出せるような代物ではない物も混ざっていたからだ。
だが、彼女は質問に答えなかった。なぜなら、彼女の注意は浅野ではなく、浅野の遥か後方に向いていたからだ。
「ん? 」とばかりに、浅野も彼女の視線の先を、振り向いて見た。
Tシャツをたくさん入れた大きなビニール袋を二つ担いだ、男の物売りが怒って立ち去っていくところだった。怒らせたのは加治川だった。すかさず、浅野は加治川に声をかけた。
「加治川、なにがあったんだ? 」
「社長…… 値段交渉していたら、彼が怒ってしまって…… 」
去って行く後ろ姿を見ても、物売りが怒っているのがわかるぐらい肩がイカっていた。
「いくら値切ろうとしたんだ? 」
「Tシャツを十枚買うから、12,000ドンまけろって言ったんですけど…… 」
浅野はベトナムの通貨、ドンの交換レートを考えた。そして、呆れた。
「加治川、ベトナム・ドンで考えると数字は大きいが……日本円なら、たったの100円じゃないか。わざわざ電卓使って年段交渉を楽しむのは良いが、国の事情が違う。たった100円のことで相手を怒らせるのはダメだ」
「はい…… すみません」
「今回のプロジェクトは加治川に任せようと考えている。だから、こんな下らないことをしているようでは困るよ」
そう言うと浅野は急いで、その場から怒って去ってしまった物売りに駆け寄った。話しかけてみると、どうやら英語は通じそうだった。
「怒らせて悪かった。彼はオレの部下だ。申し訳ない。そのTシャツを三十枚買わせてもらう。だから選ばせてくれ」
三十という数字に物売りは驚いた顔を見せた。だが、まさに現金なものですぐに笑顔に変わった。そしてゴザを広げ、その上に売り物のTシャツを何十枚と広げた。
「植村、好きなのを三十枚選んでくれ。日本へのお土産にするから」
「え? あ、はい。わかりました。じゃ、加治川と一緒に選びますね」
なんともバツが悪そうな表情をしている加治川を、植村は呼び寄せてTシャツを選び始めた。他の物売りたちが浅野たちを囲んだ。自分たちも売り込もうとしていたのか、それともどんなTシャツを日本人たちが選ぶのか、興味があったのかもしれない。
一気に三十枚を売り上げるとなれば、かなり景気の良い話だ。やんややんやの盛り上がりとなった。ただし、飛び交っているのはベトナム語なので、浅野たちにはまったく理解できなかった。
「加治川も好きなのを選びな。オレはいいから」
そういうと物売りたちの輪の中心にいた浅野は、輪の中から出た。だがTシャツを選んでいる植村と加治川はずっと物売りたちに囲まれていた。
輪の中から植村が、浅野の方を見て言った。
「本当に社長は選ばないんですか……というか、誰ですか、隣にいる美人は? 」
「え? 」
気づくと浅野のすぐ隣りに彼女が来ていた。
「こんなに買うなら、もう今日の買い物は終わりね…… 」
彼女の表情は、ちょっとがっかりしたような感じに見えた。それを見て、浅野は言った。
「一つ教えてくれないか。我々は昨日、ニャチャンに着いたばかりなんだ。どこか美味しいレストランを教えてくれないか」
「レストラン? 」
怪訝そうな表情で彼女は聞き返した。
「あぁ、どこが良いお店があるなら教えてほしい」
浅野はなにか彼女と話すキッカケになれば良いな、という程度の思いで頑張って話してみた。
だが、返ってきたのはぶっきらぼうなものだった。
「そんなところに行くお金ない。だから、この街のレストランの場所は知っているけど、味までは知らない」
意外な答えだった。そして彼女がレストラン等にはあまり行かないことを知った。
(まさか、そんなに生活に困窮しているのか?…… )
「でも、アンタたちが日本人なら『霧笛港』っていうジャパニーズレストランに行ってみたら? 空港の方へ歩いて行ったらセーリング・クラブっていう飲み屋が集まっているところがあるから、その中にあるよ」
あの無愛想な彼女が、やっと教えてくれたレストランだ。正直、味も値段もどうでもいい。浅野は後で植村と加治川を連れて行ってみようかと思った。
「貴重な情報、ありがとう。じゃ、君の売っているアクセサリーも買うよ」
「え? ……いいの? 」目をパチクリさせ、意外そうな表情を見せた彼女が浅野に聞いた。
「あぁ、情報をくれた分は何かしらのお礼をしないとね。いくら? 」
彼女は目を細め「ふーん、やるじゃない? 」とでも言いたそうな表情で浅野を見た。そして言った。
「十個で10アメリカ・ドル。私はベトナム・ドンは信用しない」
彼女の返答に対して、すかさず浅野は答えた。
「O.K. じゃ、20ドル分、買うよ」
「え? 」
その時だった。浅野の方を見ていた加治川がとんでもなく驚いた表情をした。
そして、何者かが180センチを超える浅野の両肩を後ろから掴んだ。なかなかの握力だ。
振り向いた浅野の顔の下の方に、鋭い眼光を持ち、ドスの効いた年配女性の顔があった。
加治川の叫び声が響いた。
「ミ、ミセス・ブラックウッドですよ、その人!! 」
「ヒヒヒヒヒ…… 買い方が気に入ったよ。望んでいる情報をもう一つやろう。お前がさっきから気にかけている、この子の名前は ”スウォン”だ。どうだ、美しい娘だろう? この街で一番の美人さ。覚えておきな。ライバルは多いがね。ヒヒヒヒヒ」
しゃがれ声のくぐもった英語だった。
だが、ここでやっと彼女が『スウォン』という名前であることを知ることができた。
「何をしにベトナムへ来た? 女を買いに来たか? 」
「え? 」
浅野は耳を疑った。なにか自分の方が聞き間違えたのかと思った。そのぐらい浅野にとってミセス・ブラックウッドの質問は突拍子もないものだった。
「 ……いや、そんなことで来たんじゃない。われわれは、ベトナム企業と仕事の話をするために来たんだ」
「真面目な話だね。ま、お前の物の買い方を見てればマトモな奴だとは察しがつくさ。物売り相手に、そんな買い方をする奴は初めてだ」
ミセス・ブラックウッドは口角を上げたまま、その両方の目でギョロリと浅野を睨んだ。
浅野はあまりの迫力に目を少し逸らした。彼女の顔には加治川が行った通り、左眉辺りから斜めに頬の辺りまで傷があったこともあり、あまりジロジロ見てはいけないと本能的に思った。
「ヒヒヒ。私の顔が怖いか? アホな男どもと闘うには都合がイイのさ。ビジネスは舐められたらおしまいだからな」
「た、確かに…… 仰る通りです」浅野はビビりながらも賛同した。それを聞いてミセス・ブラックウッドは大笑いした。
「ヒヒヒヒヒィ……そうかい。正直な奴だな、お前は。ますます気に入ったよ」
ミセス・ブラックウッドは目を伏せたと思いきや、すぐさま目を大きく開けて浅野の顔を見た。そして言葉を続けた。
「だが、それでベトナム人と上手くビジネスがやれるかね? 」
「え? どういう意味ですか?」
浅野の問いに、ミセス・ブラックウッドは鼻で笑いながら伏せ目がちに自分の顔を撫でた。そして再び迫力のあるギョロリとした両の目で浅野を見た。
「日本人よ、分からないか? この国では、綺麗事は弱さに見えることもある。お前のやり方が通じるかどうかは、ベトナム人次第だ 」
「え? 」
「日本人が言っていることは、ウソっぽく聞こえるときがある。コッチからみたら現実的じゃないってね」
「どういう意味ですか? 」
「ヒヒヒ。分からんか? 日本人ってのは、まるでこの世界には汚いものがないかのような前提で物事を考えるって言っているのさ。汚れているものがあるからこそ、きれいに見えるものがある。それをわかっていない」
浅野には、ミセス・ブラックウッドが言っていることがよくわからなかった。英語はベトナム語訛りはあるものの、それほどわかりにくくはなかったはずだ。ただ、しゃがれてくぐもった声のせいなのか、哲学的なことを言っているのか、よく理解できなかった。
「まぁ、いい。言っていることが分からないなら、お前は悪い人間じゃなさそうだ」
「はぁ…… 」
「『世の中』ってのは、日本だけじゃない。ベトナムにも『世の中』はあるってことさ」
浅野は彼女の表情が少しだけ柔らかくなった気がした。そして、また真顔になって話を変えた。
「で、ベトナムでどんなビジネスをするんだ? 」
「え?…… オフショア開発を考えていますが」
かなりの圧力を感じさせるミセス・ブラックウッドが少し柔和な表情を見せたことに、緊張が若干緩んだこともあった。急な質問に、浅野は正直に答えた。
「ふん! ITか。つまり、ベトナム人を安く使おうって魂胆だな」
最初のコメントを投稿しよう!