2024年 東京池袋

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2024年 東京池袋

「また、今日もやっと終わったか…… 」  浅野優一(あさのゆういち)は池袋の雑踏(ざっとう)を背に、足早に駅へ向かっていた。街の灯に照らされたアスファルトの冷たい質感が、彼の足音と共に響く。池袋の夜は、どこか落ち着かない。若者たちが群れをなし、誰かと笑い、誰かと語り合う。その光景に、浅野はもう何十年も自分がその中にいないことを思い知らされる。雑踏にいるはずなのに、自分だけが取り残されているような感覚に苛まれた。 「浅野さん、またミス? いい加減にしてくれる? 」  押井ゆきえの嫌味な声が耳に蘇る。まるで頭の中で何度も再生されているかのように、押井の言葉はいつも消えない。一回り以上も年下。小太りで、いつもタバコの臭いを(まと)っている。職場での押井の存在感は圧倒的だった。浅野は毎日のように、彼女の小言やパワハラに耐え続けている。 「派遣社員だから仕方ないわよね」  その一言が浅野の胸に突き刺さる。こんな上司がこのご時世に未だいるのかと、(あき)れる気持ちはある。だが、だからといって反論する気力も湧かない。五十歳を超えている自分がトラブルを起こせば、もう次の仕事はカンタンには見つからないだろう。だからこそ、耐えるしかない。それを理解している自分が、さらに虚しく感じる。 (早く週末が来てくれ……)この思いを毎日繰り返す。  仕事終わりの浅野の足取りは自然と速くなる。明日は金曜日。やっと一週間が終わる。そう思うと少しだけ気が楽になるが、それ以上に、疲労感が全身を覆っていた。180センチを超える長身の彼だが、最近はいつも背を丸めて歩いている。最後に自信を持って背筋を伸ばしたのは、いつだっただろうか。  周囲には、仕事を終えた人々や、これから遊びに向かう若者たちの活気が溢れている。彼らの楽しそうな声や、スマートフォンを操作する手つきは、浅野にとってどこか遠い世界のものだった。  目の前に交差点が見え、信号が青に変わる。いつもの通り、浅野はそのまま前方の地下街に続く階段を目指した。  雑踏に紛れる中で、車のクラクションが響いた。池袋の夜は、いつも騒がしい。それでも浅野にとっては、家路に向かうこの瞬間が唯一の安らぎでもあった。  どんなに仕事で酷い目にあっても、この帰り道だけが彼を解放してくれる。あとは家に帰るだけだからだ。 (早く帰って、大の字になりたい……)  浅野はただ自分の歩く動線に誰も割り込んでこないことを願っていた。よけるのも面倒だからだ。 「アサノ社長、久しぶりネ」  ふいに、後方から外国語訛りの声が聞こえた。「社長」は、今や誰からも呼ばれることのない役職のはずだった。浅野は驚きと共に、反射的に声の方向へと振り返る。  そこに立っていたのは、一目でそれとわかる高級なジャケットをまとったアジア人女性だった。 「……フォア? 」  思わず声が漏れた。彼女はかつてベトナムの障害者施設、つまり枯葉剤の後遺症で苦しむ人々の施設で出会ったフォアだ。  最後に会ったのは20年も前のことだが、それ以上に驚いたのは、彼女の身にまとった洗練された雰囲気だった。あのホーチミン郊外の施設で働いていたフォアが、なぜこんな高級な服装をしているのか。なぜ日本にいるのか。  彼女の瞳は、昔と変わらずに輝いているように見えた。いや、もっと自信に満ちているように見えた。それを感じ取ると、浅野の心には複雑な感情が押し寄せた。  今の自分は、彼女の目にどう映っているのだろうか。ベトナムで会った頃の自分は、人生の絶頂にいた。社員を数十人も抱え、IT企業の社長として成功を手にしていた。  しかし、今の自分は明日をも知れぬ派遣社員。押井の罵倒に耐えながら、毎日をやり過ごすだけの生活だ。そんな自分を彼女に見られたくなかった。 「社長、元気? 」 「フォア……本当にフォアなのか? ずいぶん立派に…… 」  彼女は笑顔を浮かべ、ゆっくりと浅野に近づいてきた。その動作は、まるで時間が止まったように感じられるほど、静かで穏やかだった。 「ワタシのこと覚えているネ。ヨカッタ」  その笑顔に、浅野はさらにバツが悪くなった。彼女に会った頃、自分は輝いていたと思う。若くして成功を収め、皆が羨む地位にいた。だが今、彼女の前に立つ自分は、あの頃とは比べものにならないほどの無力感に包まれたおっさんだ。 「今はもう、社長じゃないんだよ」  浅野はそう言いながら、苦笑いを浮かべた。どこか自嘲が混じっていることを隠しきれなかった。だが、そんなことが吹き飛ぶくらい、フォアの返答に驚くことになった。 「ワカッテル。社長の会社、つぶれたデショ? 調べたから、知っテル」 「調べた?……なぜ? 」  浅野は思わず声が出た。自分のことを調べていたという返答が来るとは、これっぽっちも予想していなかった。さらにフォアは浅野を無視して、話を続けた。 「浅野社長、少し話サナイ? 」  彼女の言葉と態度に、浅野はさらに驚いた。20年前、あの施設で働いていた女性が、こうも変わるものなのかと。すっかり、金持ちの風格が漂っている。それも、自分に話したいことがあるという。完全に気後れしていた。 「……話す? 」  浅野の口からやっと出た言葉は、それだけだった。 「ディナーでもドウ? ワタシがご馳走するヨ」  浅野は戸惑いながらも、心底驚いた。あのフォアに夕食を奢られるなんて、考えもしなかったことだ。うまく説明はできないが、すぐに断る理由を探した。  だが、この場を立ち去る言い訳すら見つからない。そもそも、仕事以外で対面で話す機会はここ十年以上なかったのだ。上手く言葉も出ない。  しどろもどろになっている浅野の目の前に黒塗りのリムジンが静かに止まった。  「サァ、行きまショ」  当たり前のように乗り込もうとするフォアを見て、目が点になった。  「え? このクルマ……まさか、フォアの? 」  浅野は呆然としながら、その高級車に乗せられることになった。今となっては、彼には身分不相応な高級車だ。シートの感触が柔らかく、車内の静寂は、外の喧騒とは別世界のように感じられた。2be24bd9-0151-48e2-812c-df6c2dac2979   フォアは運転手に向かって、静かに行き先を告げた。浅野はただ、気後れしてしまって何が起こっているのかを理解できずにいた。行き先は麻布の高級レストランだという。  金曜日の仕事終わりならいざ知らず、今日はただ早く帰って明日に備えたかった。それでも彼女に逆らう気力も湧かず、ただ静かにその車の中に座っていた。  それと同時に一生懸命に多すぎる情報を整理しようとした。そして、やはり何度も断る理由を考えていた。  「社長、早く帰りタイ表情シテル。スウォンの話、聞きたくナイ? 」  「スウォン……? 」  フォアの発した言葉が、いきなり浅野の心に突き刺さった。   ……スウォン  2002年、ベトナムのニャチャンで出会った女性の名。スウォンと聞いた瞬間、彼の心は過去へと引き戻された。  フォアは何かを話し続けていたが、浅野の耳にはもう何も届いていなかった。浅野の意識はすでに20年以上前のニャチャンの海岸に向かっていた……  あの美しい青い海、白い砂浜、そして、褐色の肌を持つスウォンの姿が  浅野優一の心に鮮やかに蘇ってきた。
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