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第三章 :統一鉄道の夜
「夜、列車に乗る前にシャワー浴びてきて」
「え?」
そう一言残すとスウォンは目も合わせずに、自分のオートバイに跨り、走り去ってしまった。
(シャワーを浴びてきて? ……どういう意味? ) 浅野はスウォンがなにを考えているのか、さっぱり分からなかった。
海岸からニャチャン駅までは、スウォンのオートバイで二人乗りでやってきた。運転したのはスウォンである。彼女の後ろに乗せてもらって、浅野はここまでやってきた。
女性の運転するオートバイに乗せてもらったのは初めてだ。
「後ろに乗って」と当たり前のように言われたのも少々驚いた。
だが、どうやって後部座席に乗るのかがわからず、彼女に掴まるために腰におっかなびっくり腕を回そうとしたら「くすぐったいから、両肩を軽く掴んで。絶対に腰に手を回さないで」と、ゆっくりと落ち着いた声で言われたのにも驚いた。
コミュニケーションはどこかギクシャクしながらも、なんとかここまで乗せてきてもらった。駅で切符を買うためだ。
ベトナム社会は国中がオートバイの文化だ。現在の状況は詳しくないが、当時はホーチミンもハノイも道はどこもオートバイで溢れていた。おそらく元々は自転車が多かったのだろう。だが、その自転車の走行方法のまま経済が良くなると共にオートバイに変わったように思えた。
そのためだろうか、交通ルールは新参者には理解し難いものがある。ヘルメットは誰も被っていなかった。
決してスピードは出さないが通勤時間などはまるでオートバイに跨ったまま正月の初詣に行っているかのような賑わいになる。それに時々、歩道を逆走しているのも目にする。特に大都市ではそういった光景を目にすることが多い。
特に当時は少しずつクルマが多くなってきていた時期で、今後のベトナム交通事情はどうなるのだろうかと疑問に思うぐらいだった。
ただ、当時のニャチャンはそれと比べると交通量はまったく多くはなかった。クルマはまったく目にすることはしなかったし、オートバイもスピードを出して走る姿を見ることはなく、どこか長閑さを感じたぐらいだ。そのせいもあってかスウォンのオートバイに後ろに乗っていても恐怖心は感じなかった。
ただし、途中の会話を除いては。
「オートバイの免許はどこで取るの? ベトナムにも自動車学校はあるの? 」
「免許? 」
「え? スウォン、まさか…… 」
「誰も捕まえない。万が一、機嫌が悪い警察に捕まったら罰金払えば大丈夫」
「大丈夫って…… 」
「誰も持っていない。免許取り行くより、罰金払ったほうがずっと安い」
この時ばかりはスウォンの両肩にちょこんと置いていた自分の手に力が入った。「そんなに強く掴まないで!」とスウォンに怒られたのは言うまでもない。
ベトナムに来て、ずっと不思議に思っていたことがある。道路を走るオートバイを良くみてみると、イスを改造しているのか4人や5人が当たり前のように乗っているのだ。
スウォンの話を聞いて納得した。運転以前の問題が、もともとクリアされていないのだから……
「しかし…… なんで4ベッドルームのチケットを往復で買わされたんだ? 誰かほかに来るのか??? 二人きりって、ミセス・ブラックウッドは言っていたよな??? ……まさか、彼女も来るんじゃないだろうな…… 」
たしかこの道で合っていたよな、とスウォンのバイクで通った道の記憶を辿ってホテルに歩きながら浅野は呟いた。買ったばかりのデジタルビデオカメラで街を撮りながら、ニャチャンを歩いている。会社に戻ったら、社員に見せるつもりだ。
駅でのチケットの購入はスウォン主導で行われた。なにせチケットの購入はベトナム語でのやり取りになるので、浅野には出る幕がなかった。
額面を聞いて、あまりにも「0」が並ぶので一瞬息を飲んだが、加治川から借りてきた電卓を使ってみれば日本円なら大したことはなかった。高いのか安いのかはわからない。
加治川が言っていた外国人料金(社会では当然のようになっている)が適用されていたのかもよくわからない。だが、一番値段が高い席であったことは確かだった。
「チケットを渡した時だけ、ちょっと微笑んだ……かな? 」
浅野が続けて呟いたのは、もちろん、スウォンのことだ。
「まぁ、いいか」
その顔はちょっとニヤけていた。そんな気持ちを戒めるように、デジカメのモニターに丘の上にある教会が写った。
「あれ? 良く見ると、ずいぶんと立派だな。確かさっき、来る時に見た教会だ。これを目印にすれば海の方向がわかる……か」
浅野はただ海に戻るのもつまらないので、あの教会に行ってみることにした。小高い丘の上にある教会なので、石畳となっている坂をぐるりと周りながら登っていかないといけない。浅野はすこし面倒だが、それを言っては罰当たりだと思い直した。
坂の途中にはオートバイが何台も停まっていた。そして十字架を運ぶキリストの像が、聖書に登場する各シーンを表現するかのようにいくつもある。
「こんなところに停めるのは、それこそ罰当たりじゃないのかね…… 」
やっとの思い出坂を上り切ると、教会の入り口近くまで、さらに数十台のオートバイが停めてある。そして驚くことに、その台数の数倍の人間が入り口にたむろしていた。
「え? こんなに人がいるもの? 」
入り口では白人の観光客とチケット係が口論をしていた。どうやら金額でモメているようだ。こう言った光景はベトナムに来てから何度も見た。『外国人向け値段』というものが、その元凶だ。
現地の人は無料だったり安価だったりするのだが、外国人向けの料金が異常に高い場合があるのだ。それも、それを取り仕切っている人間が勝手にやっている場合もある。さらには、勝手にやっていながら態度が横柄な場合も少なくない。
日本人と見られる観光客でクレームをつけている人はあまり見ないが、他の国の旅行客はそれに対して黙ったままではいない。もちろん、あまり見ていて気持ちの良いものではないが彼らの姿が正解なのだろう。
ひょっとすると黙って受け入れてしまう日本人観光客が彼らにとっての「外国人観光客」のスタンダードになっていないだろうか?と、浅野は疑問に思った。だが、とにかくトラブルは避けたい。
「面倒なことになるぐらいだったら……とりあえず、建物だけ見て帰るか。それにしても近くに来てみると、かなりデカいな。大聖堂と呼ばれるだけはある…… 」
大聖堂の中は、入口から真っ直ぐ進んだところに祭壇があるということに気づいた。口論している連中の遠く向こうにキリスト教の祭壇が見える。
「じゃ、ここから祈るか。神様、怒るかな。でも、あんな口論している連中のところへいきたくない」
浅野は手を組み、大聖堂の外から祭壇に向かって祈った。なにを祈ろうか?と自身に問うたが、思い浮かんでくるのはスウォンのことばかりだ。
(なんか、会ったばかりなのに彼女のことばかり考えているな、オレ…… )
とりあえず、今夜ホーチミンに向かう旅の無事を祈った。
『チケット係』の男が浅野を見つけ、猛ダッシュしてきた。そして大声でなにかを言った。
浅野は男を無視して背を向け、再びデジタルビデオカメラで教会周辺の撮影を再開した。浅野の近くに来てわかったが、かなり小柄な男だった。ぴょんぴょんと跳びはねながら甲高い声で何かを叫んでいた。
大柄の浅野は、子犬が騒ぐのを相手にしない大型犬のように男の喚きを無視して撮影を続けた。その男が浅野の背中で喚き続けている。その間を縫って教会に入って行った外国人観光客とみられる者たちが数名いた。
(邪魔だな。さっさと『持ち場』に戻れよ…… 音声が入るだろうが)
しかし、無視を続けていると騒いでいた男が急に静かになった。
「ん? うわ!」
浅野が振り向くと、その男は真剣にビデオカメラの小さなモニターに映っている風景を見ていた。それも、その男だけではなく大聖堂前にたむろしている人たちまでいつの間にか浅野の後ろに並び、その小さなモニターを真顔で見ていた。
浅野は動きが止まった。あまりにも大勢の人間が浅野が持っているビデオの小さな画面に釘付けになっていたからだ。
『チケット係』の男が静かに口を開いた。
「Made in Japan? 」
浅野は「Yes. It’s a SONY」と答えると、感心するかのようにその男だけではなく、大勢が真顔で個々に頷いた。
ニャチャン駅を出発したのは21時過ぎだった。夜に出た理由は、ホーチミン駅から目的地に行くにも時間がかかるし、営業時間が終わってしまうので朝の早い時間にホーチミン駅に着きたいから。
海岸での浅野とスウォンの会話はこのような感じだ。
「ホーチミンに行くのは夜行列車がいい」
「夜行? なぜ? 」
「朝に出たらホーチミンには夜着く。そうしたら何もできない」
「鉄道だとホーチミンまで、どのくらいかかるの? 」
「9時間半。電車によっては11時間かかる」
「え? そんなにかかるの? 行きたい場所は、ホーチミン駅から近いの? 」
「近くない」
「…… そうか」
ということで、夜行列車で行くことが決まった。(飛行機の方が絶対に良いのだけどな……)と浅野は内心思っていたが、なにせスウォンは飛行機ギライだ。仕方がない。それに…… あのミセス・ブラックウッドの『気遣い』もあった。
昼のベトナム統一鉄道・ニャチャン駅の姿はクリーム色で、屋根がオレンジ色というかわいらしい建物である。遠くから見た感じは大きくはないが、ホームはそれなりに長いし、実際にはそれなりに大きな駅だ。
夜の駅の待合室は列車の到着を待つ人で待合室はいっぱいで、話し声がとてもうるさい。もっともこれは夜に限った話ではないが。
何故かニューヨークやロンドン時間を示す時計があったが、誰もそんな時計には気にも止めずに大声で何かを話している。スウォンは彼らの会話がわかるだろうが、浅野にはただの騒音だった。
そんな大賑わいの待合室を通り、あまり地面と段差のない駅のホームから浅野とスウォンは列車に乗った。
「スウォン、ここみたいだよ」
列車の中の狭い通路を通りながら、席を探した。席、といっても実際には部屋のようなものだ。二段ベッドが二つある部屋。
四人部屋の一等寝台。とは言え、日本の豪華列車とはだいぶ違う。殺風景な男子寮の部屋といえばイメージが湧くだろうか。
「上に荷物を置く。その方が盗られにくいから」
本来ならば上のベッドとして使うスペースにスウォンはバッグを置こうと考えているようだった。
「オレがやるよ」
浅野がスウォンのバッグを受け取って、自分のボストンバッグとともに上のベッドへ置いた。浅野は長身なので、なんてことはない。その間、スウォンは黙って浅野を見ていた。
部屋のドアをノックする音がした。検札のために車掌が来たのだ。スウォンが対応したが、やはり車掌は入ってくるなりスウォンの美貌に一瞬たじろいだのがわかった。
(やっぱり、彼女は美人だよな。ベトナム人にとってもそう思うだろうな)と浅野は心の中で思った。
気のせいか、車掌が一瞬羨しそうな表情で浅野を見た気がする。
お互いが各々のベッドに座った。浅野が想像していたよりも遥かにスウォンとの距離が近い。お互いのベッドの距離は人一人分ぐらいだ。スウォンは澄ました顔で何も言わず、浅野の顔をじっと見ている。
あいかわらず、何を考えているのかわからない……
なにか話題でも、と思って客室を見回すと浅野はあることに気づいた。
「あれ? 上のベッドにあがるハシゴがない…… どうやって登るんだ、これ?」
スウォンは立ち上がって、素早く上のベッドによじ登ってみせた。
そしてベッドの上で、狭いスペースの中で前のめりになりながら胡座をかいた。あんな美女でありながら、ベッドによじ登るのをやって見せるのは、なかなかワイルドな光景だ。
「 ……あぁ、そうやるのか。見せてくれてありがとう。でも、降りる時がちょっと難しいね」
するとスウォンが今度は降りる姿を見せようとした。その時、急に列車が動き出した。
「アッ!」
浅野は咄嗟に立ち上がってスウォンを抱き抱えた。
「危なかったから、つい…… 」
スウォンはなにも言わず、黙って浅野の顔をジーと見ていた。
浅野がスウォンを降ろすと、彼女は何事もなかったかのように自分のベッドの上に戻って胡座をかいて、雑誌を読み始めてしまった。
それ以降、スウォンは浅野の方をあまり見なくなった。
(なんか怒らせたかな。あの場合、仕方ないじゃんか…… )
なんとなくバツが悪いので、浅野が窓の外の景色をみた。もうすでに闇夜の時間だが、家々のすぐ近くを通り抜けるように列車は走っている。騒音はかなりのものではないか?と思った。
「線路が近い家は、やはり家賃とか安いの? 」
「住んだことないから、わからない」 いつもの通り、スウォンからはぶっきらぼうな返事があった。とりあえず、無視はされないことを浅野は確認できた。
夜なのでよくは見えないが、昼にこんな場所を通っている風景を見たら、風情のようなものを感じたりするのだろうか…… そんなことを思う。だが、やはり湘南を走る江ノ電とはちょっと違うよな、と浅野はすぐに思い直した。
だんだんと街の灯が少なくなってくるのがわかる。
部屋の光だけが窓にハッキリと反射するようになった。外はもうあまり家も建っていないのだろう。電車の窓はほぼ鏡のようになっていた。
寝そべって雑誌を読んでいたはずのスウォンと浅野の目が合った。
「え? 」
スウォンは何も言わずにすぐに視線を外して、再び雑誌を読み始めた。
(いつから窓越しにオレを見ていたんだ??? ぜんぜん気づかなかった…… )
スウォンは黙って雑誌を読んでいる。浅野もなにかを話すキッカケを失っている。
一等寝台という空間で暫く電車の音だけが響いた。時間が過ぎるのがやたらと遅く感じる。
浅野は一旦、ベッドに寝転がってみた。その瞬間、このベッドは当たり前だが、ベトナム人の標準だろうと思った。大柄の浅野にはかなり窮屈だ。腕を横に伸ばすことはできない。横になっているだけで、ほぼ直立不動のようだった。
浅野にとって大の字になって寝るのが一番のリラックス方法なのだが、それができない。ましてや初めてのベトナムである。とうぜん、寝台列車に乗るのも初めてだ。それもこんな美女がいっしょである。リラックスなんてできるわけがない。仕方なく目だけ瞑った。
浅野はため息をついた。そして心の底からベトナム語をすこし勉強してから来ればよかったと思った。室内灯の明るさを感じる瞼の裏が急に暗くなったのを感じた。
「うわっ!!」
目を開けると、すぐ横にスウォンが立っていた。
「え? なに?」
「食べ物を売っている間に、買いに行った方がいい」
「え? 」
「明日の朝、ホーチミン駅のホームで朝食を買うまでは飲まず食わずになるから」
「そ、そうなんだ。じゃ、なにか買ってくるよ」
「いや、いい。いっしょに行く。ここにいる間は、私が一緒の方がいいと思う」
部屋に鍵をかけ、貴重品だけを持って列車の中をスウォンと歩いた。列車の通路は本当に狭い。特に大柄の浅野は人とすれ違うのも大変だ。その上、揺れる。それでもスウォンはお構いなしにズンズンと進んで行ってしまう。
「スウォン、すごいな。よくそのスピードで歩けるな」
スウォンは気にせず、進んで行ってしまう。もっとも、列車の走る音が大きく、それよりも大きな声を出さないと相手には届かないのだが。
やっとの思いで、スウォンに追い着いた。社内販売をしている通路まで辿り着いたのだ。
人ひとりしか通れないスペースの通路に旧式の電子ジャーが所狭しと並んでいた。とても狭い通路にホテルのバイキング朝食のテーブルが並んでいるようだ。
飲み水はホテルで買ってきたので、ここでは買わなかった。その分、いろいろな種類の食べ物を買ってきた。もちろん、浅野は料理名はまったくわからない。でも、見た目はとても美味しそうだったので気にせずに選んだ。
「スウォン、オレが払うよ。ぜんぶでいくら? 」
初めて彼女はちょっと戸惑ったような表情をした。
「いいよ、いいよ。スウォンが食べたい物を選びなよ」
最初にスウォンが買おうとしていた量は、かなり少ないと感じた。スウォンは海岸で会った時もレストランの場所は知っていても入ったことがないと言っていたことを思い出した。だから、あまり贅沢をしていないのならば、もっと好きなだけ食べてほしいと浅野は思っていた。
「いい? これもいい?」
一つ一つの料理を指差しながら振り返り、スウォンは浅野に買っても良いかどうかを一回一回尋ねた。
そんなスウォンの姿はなんとも意外だった。まるで、こどもが親に尋ねているかのようで、なんとも愛しい。
二人で食べるにしては少々多いと感じる量となったが、腹を空かせて列車に揺られるよりはマシだ。ホーチミンまでの道のりはまだまだ長い。
揺れがさらに増した車内通路を通り、二人は自分たちの部屋へ戻った。行きとは違って、買ったすべての物を持って歩く浅野をスウォンは気にかけながら歩いてくれた。
もしかすると食べ物を気にしていただけの可能性はあるのだが……
部屋に戻って浅野が気付いたことがある。
それは、車内ではあまり冷房が効いておらず、一等寝台だけが真面に恩恵を受けている、ということだ。二等寝台はなんと三段ベッドが部屋の両サイドにある6人部屋であり、部屋を閉めずにドアを開けていることが多いと感じた。
もう一つ気付いたことは、家族とは思えない男女が同部屋になっているケースも相当数ある、ということ。三段ベッドなので雑魚寝という表現は当たらないかもしれないが、そんなニュアンスの部屋も目にした。
列車の切符を買う時に一等寝台を4人分、それを往復で浅野に購入させたスウォンの意図が理解できた。贅沢ではあるが、まあまあ快適な旅にはなっている。それになによりも冷房が効いている。
スウォンが部屋に戻ると意外なことを言った。
「思ったよりも冷房が効いている」
「え? そうなんだ。以前はもっと暑かったの?」
「いや、いつもはバス。こんな快適にホーチミンに向かったことない」
「え? 初めてなの? 」
浅野は驚いたが、スウォンは悪びれることなく軽く頷いた。そして浅野を見た。なにか悪い?とでも言いたそうに。スウォンは言った。
「いつもはバスで行くからホーチミンに着くまでに汗をかく。でも、ここは快適。想像よりも涼しい」
「 ……あぁ、そういうことだったのか」
浅野のこの発言は、スウォンが昼に言った『夜、鉄道に乗る前にシャワー浴びてきて』の真意を知ったから出たものだ。
「そりゃそうだ。会ったばかりでそんなこと言うわけないよな」 思わず、浅野は日本語で言った。
「なんて言った? 英語で言って。わからない」
「ごめん。部屋は冷房が効いていて最高だ、って言ったんだよ」
「ふーん 」
違ったこと言ったでしょ?というちょっとした疑いの表情をしていたが、スウォンはとりあえず納得した。
二人の間には窓の下から飛び出ている台があり、その上に買ってきた食べ物を置いて、対面で食事を始めた。窓の外は真っ暗で時々、踏切を通る時だけ明かりが見える。それ以外のときは窓がほとんど部屋の中にある鏡のようになった。
食べているときのスウォンはとても嬉しそうだった。ガツガツ食べるわけではないが、美味しそうにモリモリ食べる。
スウォンは本当になにを考えているのか、よくわからない。
食事を購入する時はまるでこどものようだし、二段ベッドへの登り降りを見せてくれたり、無免許でオートバイを運転したり、海岸では名前を教えてくれなかったり。
だが、今、目の前にいるスウォンは本当においしそうにご飯を食べている。それもなんだか楽しそうだ。
「おいしい? 」
「おいしい」
「これ、なんていう料理なの? 」
「わからない。インドネシア料理だと思う」
「 ……ベトナム料理じゃなかったのか…… 」
楽しそうに食べているので、話題を振ってみた浅野だったが失敗に終わった。
スウォンが近くにいるのか、遠くにいるのかよく分からない。少なくとも浅野のすぐ前にいて、楽しそうに夕飯を食べている。だが、心がどこにあるのかがイマイチ理解できなかった。
(でも、まぁ…… 日本のバイキング形式でも日本食ばかりが並んでいるわけじゃないか。パスタもカレーも元々、日本食じゃないし。オレの質問がチープだったのかも)等と思い直し、浅野は心のリカバリーに努めた。
しっかりと夕食を取ると、スウォンはとても満足そうだった。
「夕食、ありがとう。おいしかった」
スウォンはそういうと客室から出て行った。洗顔セットを持っていったところをみると、どうやら洗面所に歯を磨きに行ったようだ。
浅野はひとつため息をついたが、実はそれなりに満足感を持っていた。というのも感謝を伝えてきたスウォンが食べている時と同じ満面の笑顔を見せてくれたからだ。今日会ったばかりではあるが、あまり表情を見せないスウォンがあんな笑顔を見せてくれたので安堵に似た感覚があった。
「ま、いっか」 思わず、言葉が出た。
スウォンが戻ってきたので、今度は浅野が洗面台のある場所まで行って歯を磨いた。
薄暗い電灯の下、すべてが薄汚れたような銀色が大部分を占める洗面室で歯を磨いた。そして歯を磨きながら考えを整理した。
「元々、なんでスウォンと二人きりで夜行列車に乗っているんだったっけ? あ、そうだ。あの婆さんに仕向けられたんだった。ホーチミンにある、どっかにスウォンと行けってことだった…… それにしても、スウォンはいきなりオレと二人きりでこんな寝台列車に乗って、怖くないのかな」
少し考えて、浅野は決めた。列車がいきなり揺れて、体もグラリと揺れた。
「あまりそんな話題に触れない方がいいな、きっと。彼女も変に意識してもよくないだろう。普通に振る舞うのが一番だ」
スウォンが待つ客室に戻った。一応ノックをしてからドアを開けて中に入った。
「え? 」
スウォンはすでに寝ていた。
「うそ…… 」
列車の外は暗闇だ。窓はまるで鏡のようになっている。そこには呆然とした浅野が立っている姿を映し出していた。
列車が揺れ、浅野の体は意思とは関係なく前のめりになり、足も前に進んだ。瞬時に音だけを出さないようにと、自然と気を付けて急ブレーキをかけた。
それでもスウォンの寝顔がすぐ目の前にある位置まで一気に来た。
その寝顔はどこかアンニュイな雰囲気を醸し出していて、寝顔すらも美しかった。まるで自分が映画の世界にでも入ってしまったかのようだ。
浅野は本能的に近づきすぎてはいけないと感じ、後退りした。
そして、客室の電気を消して自分のベット上に寝そべった。部屋の中には月明かり以外の光は何もない。
スウォンが寝ているベッドはすぐ近くだ。人一人分も離れていない。
時々、列車が踏切を通過する際にライトが一瞬だけ客室に届く。その明かりでスウォンの寝顔が見える。
「スウォンは、いろんな意味で凄いな」
浅野はそう呟くと目を閉じた。ひとつため息をつき、壁の方を向いた。
「オレは、どうもこの旅では自分のペースが掴めない…… 」
「起きて。もうすぐホーチミン駅」
スウォンに体を揺らされて浅野は目を開けた。
「え? もう朝? 」
「もうすぐホーチミン駅」
「さっき目を閉じたばかりなのに、いきなりホーチミンかよ…… 」
浅野は眠い目を擦りながら窓の外に目をやった。さすがにホーチミンは都会だ。この列車が走る線路沿いにはかなりの建物がある。
だんだんと線路のすぐ近くに民家も増えてきている。自分が考えているよりもホーチミン駅は近いのかもしれない。
「あれ? 」
「なに? 」
スウォンは昨日の夜までとは違い、上がブラウス、下がスラックスという清潔感がある真っ白な服装になっていた。 窓から入ってくる朝陽が反射し、白のブラウスは起きたばかりの浅野には眩しかった。
「いつ着替えたの? 」
「さっき」
「え? ここで着替えたの? 」
「そう。あなたが眠っていたから」
「 …… 」
スウォンの返答で、浅野は完全に寝入っていたことを知った。
「起こしてくれれば、部屋の外にでたのに」
「ホーチミン駅にもうすぐ着くから降りる用意をして」
スウォンは浅野を相手にせず、そう言い残して客室の外に出てしまった。浅野は急いで荷物をまとめた。
「そういや、女性に起こされるなんて久しぶりだ。こんな感じだったか…… 」
朝になり、体力が回復したからだろうか。嗅覚が夜よりずっと鋭くなっている気がする。浅野は室内に良い香りが残っていることに気づいた。大きく息を吸ってみた。そして、気づいた。
「 ハッ…… そうか……スウォンか…… こんなことも…… なんだか、久しぶりだな」
その時、スウォンが洗面道具を持って客室に戻ってきた。浅野は深呼吸した自分がちょっと恥ずかしくなり、照れかくしもあって積極的に彼女に話しかけた。
「オレも歯を磨いてくる。降りる用意はできているから」
「わかった。急いで」
浅野は洗面所のある客車に急いだ。そして鏡で自分の顔をみた時に気づいた。
「スウォン…… そういえば、ずっとノーメイクだった…… それであのクオリティか……まるで女優かモデルみたいだ」










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