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第四章 - 真実を見る目
「アサノサーン!」
スウォンの後を追いながらホーチミン駅から出てくると「ASANO」と書かれた大きなノートを掲げていた男が待っていた。その男は浅野に話しかけようとしたが、スウォンが素早く対応した。
「あ、そうだ。携帯をチェックしなきゃいけなかった」慌てて確認すると、成田空港で借りた海外用携帯に加治川から連絡が入っていた。
スウォンと男の会話はベトナム語だったので、彼らの会話はなに一つ分からなかった。だが、スウォンが浅野の腕を掴んだ。どうやら加治川が手配してくれた運転手のようだった。
加治川に連絡をいれると、少し日本語を話せる運転手を用意した、ということだった。
3人を乗せたバンが動き出すと、運転しながらコンが自己紹介を始めた。
「はじめまして『コン』と申しマ〜ス。よろしくお願いしマ〜ス。松戸に1年間、住んだことアリマ〜ス」
「あ、どうも(日本語の変なノリが苦手かもしれない…… )」
「今日はこれからホーチミン市内を案内しマ〜ス」
言葉は日本語だったが「ホーチミン」という言葉にスウォンが反応した。なにやら彼女は強い口調でベトナム語を話している。コンは運転をしながら、防戦一方で平謝りのジェスチャーだ。
「え〜スミマセン。いつもの調子でホーチミン市内を案内しそうになりマシタ。これからホーチミン市の郊外に向かいマス」
コンが話し終わると同時にスウォンがなにかを言った。コンは彼女を制止するようなポーズをとった。
「お客様、ベンタイン市場には、行きましタカ? 」
「はい。最初にホーチミンに来たので 」
「ウァ? 」
「今はニャチャンに滞在していて、列車で今日はホーチミンに来ました」
コンはなにか話す時、かならずバックミラーでスウォンを見てから話すようになった。それも、恐る恐る。そして浅野とコンが話すと、必ずベトナム語でコンに話しかける。
浅野はベトナム語はまったくわからないが、スウォンが話すフレーズは毎回同じなのでもしかすると「いま、なにを話した? 」と尋ねているような気がした。
1時間ぐらい走っただろうか。運転手がトイレ休憩をいれた。スウォンも浅野も行く必要はなかったので断ったのだが、コンが行きたかったらしく、バンを離れた。
すると、スウォンが英語で話し始めた。
「あの運転手、最初はホーチミンを案内してから施設に行こうとした」
「え? なぜ? 」
「いろんなお店をまわって、あなたに買い物をさせればそのお店からキックバックがもらえるから」
「 え? ……そういうこと? 」
「私たちにそんな時間はないと思う。あなたは仕事でベトナムに来ているのでしょう? ほかの二人もニャチャンにいる」
「あぁ、そうだね。ありがとう」
「今日、用事を済ませたら夜にはホーチミン駅で鉄道に乗る。明日の朝にはニャチャンに着く」
「スウォンこそ、体は大丈夫? 疲れていない? 」
「もしもあの男が帰ってこなかったら、私が運転する。クルマの免許はないけど、なんとかなる」
「え? ( ……そんなにあの男を信用していないのか。でも、スウォンのクルマの運転は……) それにしても遅いね、あの人」
そのとき、コンが走って帰ってくるのが見えた。そしてバンに乗り込むなり、日本語で言った。
「スミマセン。『小』だと思ったら、けっきょく『大』デシタ」
浅野は吹き出した。それをみてスウォンが「なんて言ったの?」と何度も聞いてきた。
「お客さん、通訳しなくてイイですヨ」とコンが言ったが、しつこくスウォンが聞いてきたので訳したら黙ってしまった。そして、ため息をついて目を逸らした。
バックミラーに映るコンの顔を見ると、してやったりの表情をしていた。
「着きま〜シタ」
「スウォン、ここはどこ? 」
「先ずは降りて」
コンは灰色の中規模工場のような建物の前にバンを停めた。駐車場としてはとても広いが、降りると砂利で歩きにくい。舗装はまったくされていなかった。もっともホーチミン市街を抜けてからはずっとこんな調子の道路を走ってきたのだが。
「スウォン、この建物は? 」
スウォンが浅野に答えようとした瞬間、建物から高校生ぐらいに見える少年が出てきた。
「日本人デスカ? イラッシャイマセ! ヨウコソ!!」 いきなり元気よく日本語で話しかけられた。
「とにかく、中へ」
スウォンはそう言うと、その日本語で話しかけてきた少年と建物の中へ入って行った。浅野は彼女を追った。なぜか運転手のコンも付いてきた。
建物の中はコンクリート打ちっぱなし、というような殺風景なものだった。
そして、それとは似つか合わない、とても高尚な香りが漂っていた。日本のお香とはまた違う。浅野にとって初めての香りだ。
一つ目の部屋には絵が壁だけではなく、ショーケースにいくつも飾ってあった。キャンバスに描かれていたものから絵葉書サイズのもの、大小さまざまな絵が置いてあった。それだけではない。ポーチやハンカチ、巾着にも絵が描いてあった。
よくみるとどれも値札がついている。飾ってあるのではなく販売しているのだと気づいた。壁に掛かっているものはベトナム貨幣であるドンだとしても、まあまあ高価だと感じた。
「え? 」
浅野は絵葉書サイズの絵を手に取り、すぐに壁に掛かっている絵を見た。そしてポーチなどの小物にも目を凝らした。
「普通の絵じゃない…… これは…… 刺繍だ」
浅野が絵だと思っていたものは、すべて縫ったものだったのだ。それも、大きさに関わらず、どれもこれもとても丁寧な仕事がなされている。
「見事だ。虎も孔雀も蓮もすべて刺繍なのか…… 」
「すべて手縫いよ」
「手縫い?! うそだろ? 機械じゃないのか? 」
スウォンの言葉に、浅野はさらに驚いた。
「あなたの目から見て、絵はどう?」
「素晴らしい仕事だと思う。こんなの初めて見た。ベトナム人は器用だと聞いたことがあったけれど、ここまでとは。想像以上だ」
興奮気味に浅野が答えると、スウォンは対照的に冷静に話した。
「もう一つ見せたいものがある。こちらへ来て」
スウォンに導かれ、別の部屋に招かれた。ドアを開けると、そこには想像もしていなかった光景が広がっていた。
その部屋は工房だった。普通高校の1クラス分ぐらいの数の少年・少女たちが刺繍専用の台を上と下から抱え込むように作業をしていた。何人か立っている女性たちがいるが、指導員かなにかだろうか。
「てっきり熟練工の年配者が作業していると思ったが…… 違うのか」
浅野は呟いた。そして気づいた。浅野はすぐに彼らの姿をつぶさに観察した。
頭の形が歪んでいる者、手や腕が変形している者、背骨が曲がっている者。
よく見れば、作業台にもたれかかるようにして休み休み作業をしている者が多い。
「スウォン、彼らは…… 」
「枯葉剤の後遺症にに苦しんでいるこどもたちよ」
浅野は血液が逆流したかのような衝動を感じた。あの丁寧な仕事は、この子たちがやったものだったのだ。
「この子たちが、あの刺繍を…… あの芸術的な絵も…… 」
「そう」
「……言葉にならないな」
作業中ながらも、ほとんどの子たちはチラチラと浅野を見ていた。どうやら浅野に興味がありそうだった。
浅野は目の前の光景に戸惑いながらも、目が合ったこどもたちに自然と微笑んだ。
すると誰もがにっこりと笑顔で答えてくれた。『満面の笑み』とは間違いなく、このことだ。目が合い、笑顔を返してくれた子は全員がそうだった。浅野はなにか懐かしさのようなものを感じた。
(この感覚はいったい…… )
「絵を描く人は、それ専門。縫う人も縫う専門。作業の邪魔はこれ以上できないから、戻る」
スウォンが部屋を出て行った。
浅野は後ろ髪を引かれる思いだったが、スウォンについて出て行こうとした。振り向き、こどもたちに手を軽く振ると、全員が満面の笑顔で手を振り返してくれた。浅野がこの部屋にいたのは数分だったはずだが、通常とは違う時間の流れを感じたような気がした。
心が震えている感覚に襲われながら、刺繍された絵が壁に掛かっている部屋に戻ってきた。あのような光景を目にした後に、彼らが作った作品を目にすると先ほどとは気持ちがまったく違う。
(枯葉剤の影響を受けた人たちに対して持っていたイメージと、本当の姿はまったく違っていた…… )
浅野は壁にかけてある刺繍された絵の数々をしっかりと見るようになっていた。そして、絵だけではなく他の小物も。
「スミマセン、日本語勉強中デス。日本語でアテンドしてもいいデスカ? 」
「え? あぁ、日本語が上手ですね」
「イエイエ、まだまだデス」
手に日本語のノートを持ったまま浅野に近づいてきた小柄のベトナム女性がいた。赤いアオザイを着ている。彼女の役割はセールス、つまり営業マンだった。よく見れば、彼女は右足を少し引きずり、左手が不自由のようだ。
「お土産になにか買っていきまセンカ? 」
「はい。そのつもりです。なにかお薦めはありますか」
「これなんてどうでショウカ? 」
日本語は辿々しいところもあるが、臆せずにもっとも高価な物から薦めてくる。彼女は立派な営業マンだと浅野は思った。いちばん高い物から話を進めれば、それが印象に残って後になればなるほど「安い」と感じるようになるからだ。つまり彼女はいちばん高価なものを買ってもらえるとは元から期待してはいない。
浅野は彼女のセールス口上が続く中、ちょっとだけ話題を変えてみた。
「ところで、なんで日本語を勉強しようと思ったの? 」
「ウァ? それは生きるためデス」
「え? 」
いきなりダイレクトな答えが返ってきて、浅野は聞き返してしまった。彼女は続けた。
「これから中国が強くなると思うケド、日本は先進国相手に素早く成功した最初のアジアの国デス。だから日本人とコミュニケーション取れるようになりたくて、日本語を勉強してイマス」
「そんなことを考えているんだね。それで日本語か。僕もそのぐらい勉強しないとベトナム企業とは上手くやれないのかな…… 」
「スミマセン、もっとゆっくり話してクダサイ! 日本語、わからないですカラ!」
思わず、普通に日本語で話した浅野に彼女から笑顔でクレームが入った。スウォンの件もあり、名前などは聞かなかったものの色々な話ができた。彼女は英語も堪能で、日本語と英語のちゃんぽんで会話ができた。
彼女はセールスマンらしく、会話がしやすい。それに会話の端々からビジネス的な感覚にも長けているように感じる。笑顔も自然だ。
確かになにかを売る気は満々なのを感じる。だが、話にまったく嫌味がない。浅野には彼女がここでのトップセールスなのだろうと容易に想像できた。
彼女から何かを学ぼうとしているのだろうか、他のセールスたちも彼女の後ろに付くようになった。全員、日本語のノートを持っている。彼女の説明に、合いの手を打つようになった。
「どれもこれも素晴らしい作品ばかりだ。ここへ来て良かったよ」
自然と浅野の口をついて出た言葉だった。みんながさらに笑顔になった。セールスたちが人懐こい笑顔をみせているのも良かったが、全員が楽しそうに、そして誇りを持って働いているように感じる。浅野はそれが一番気に入った。
「コレ、どうデスカ? 巾着デス」
「コッチは財布デス」
正直、見ればわかるものばかりだったが日本語を積極的に使いたがっているのが伝わってくる。セールスたちはこういった会話をずっと続けてくる。だが、まったくイヤではない。浅野はむしろとても楽しかった。
最初に話しかけてきたトップセールスと思われる彼女と比べれば、とても営業トークとは言えないが、なにか買って行こうかと思ってしまうような純粋さを感じていた。
浅野の枯葉剤の影響を受けている人たちへの暗いイメージは180度変わった。テレビや雑誌が伝えない世界があるのだと、浅野は改めて痛感した。
「実際に来てみないと、分からないものだな」セールスたちの笑顔を見て、思わず言葉が出た。
あのトップセールスの女性が、浅野を取り巻いている他のセールスたちに何かベトナム語で話した。すると急に彼女たちは黙った。
「名刺をいただけマスカ? ワタシの名前はフォアと言いマス」
トップセールスの女性が名刺を出した。心の中で(会社でもないので、ここで?)と浅野はちょっと驚いたがすぐに自分の名刺を彼女に差し出した。彼女は浅野の肩書や氏名を英語で書いてある名刺の裏面までささっと確認した。
「アサノ社長サン、ですネ? 」
「はい、そうです。ちゃんといろいろと買って帰りますよ」
浅野がそう言うと、取り囲んでいたセールスたち全員が笑った。それを見て浅野も自然と微笑んだ。
「ありがとうゴザイマス。いっぱい買ってくれたら、マケマスヨ」
フォアの日本語に思わず浅野は声を大きくして笑った。つられて他のセールスたちも大笑いした。「まける」は、セールスたちの日本語の常套句なのだと、浅野は確信した。
「買う前に連れて行きたいところがある」
今まで浅野とセールスたちのやりとりを黙ってみていた、スウォンが言った。フォアとスウォンがなにやらベトナム語で話し始めた。
「OK」とフォアが言った。スウォンが浅野を見た。
「こっちよ」
スウォンの案内で建物の中庭に出た。
「スウォン、どこへ行くの? 」
「ついてきて」
さっきまでいた建物から中庭を突っ切り、反対側の建物に入った。すると中は、今までの殺風景なコンクリート打ちっぱなしのような壁面ではなく、まるで高級ホテルのスイートルームのように豪華に飾り付けられていた。
「ここは? 」
「奥まで行く」
いつものようにぶっきらぼうな答えがスウォンから返ってきた。いや、正確には浅野の問いには答えていないのだが……
スウォンに案内されるまま、建物の中を進んで行った。進めば進むほど、高級感が増して行く作りとなっている。
「なんか……ブルース・リー映画のラスボスの部屋に向かっているような気が…… 鏡の部屋とかないよね…… 」 浅野は苦笑いしながら、そんな冗談を言った。
「この部屋よ」
スウォンはそう言うと、部屋の扉をノックした。
男とも女とも言い難い声で、返答があった。
言葉はベトナム語だ。スウォンが扉を開けた。部屋の奥の方に高級そうなデスクがあり、見覚えのある顔がこれまた高級そうな椅子に座っていた。
「え? 」
浅野は思った。このシチュエーション、どこかで見たことがある、と。
そうだ、去年観たアニメ映画と似ている。もしや目の前にいるのは双子の姉の方か? まさか、オレは優一の名前の1文字を取られて「優」と呼ばれるのか?
そして、ここで働けと言われるのか?と。
「なんだ? この顔を忘れたのか? 」
「え? ……ミセス・ブラックウッド? 」
彼女は、なんだお前? とでも言いたそうな表情をしている。
「そうだ。それ以外に誰がいる? 」
「なんだ、本人か。そりゃそうだ」
浅野はとりあえず、あの映画のようにはならないことにホッとした。
「どういう意味だ? 」
「いや、別に。でもなぜここに? いつ来たのですか? 」
「飛行機でくれば、ニャチャンからここに来るのに時間はかからない。それより、スウォンとのふたり旅はどうだったのだ? 変なことはしてないだろうな? 」
会話がここまで来ると、浅野の後ろにいたスウォンがベトナム語でミセス・ブラックウッドと話し始めた。
彼女はすこし疑った表情で浅野を見ながら、スウォンの言葉に二回頷いたいた。
「日本人よ。お前はつまらないヤツだな」
ミセス・ブラックウッドが半笑いの表情で英語を話すと、すぐにスウォンがなにやらベトナム語で言い返した。そのため、浅野はなにも反論する時間もなく、特になにもできなかった。
意外にもスウォンがすこしばかり興奮しているような表情に見えた。それに対して、ミセス・ブラックウッドは軽く鼻で笑った。
「スウォンが言うには、お前は紳士的だそうだ。夕食もたくさんご馳走してくれたらしいな。食事を出せるかどうかは男として、とても大事なことだ」
「え? 」
「まぁいい。それより、この施設を見てお前はどう思ったのだ? 」
浅野はここでの出来事を少し思い出してみた。
「正直、枯葉剤に苦しんでいる人たちのイメージが少し変わりました」
「それで? 」
「なんでもそうですが、実際に来てみないとわからないことがあるな、と思いました」
「例えば? 」
浅野も中規模の会社とはいえ、トップである。ミセス・ブラックウッドがなにかしらに対して、自分を試しているとすぐに感じ取った。
浅野は少し間を取った。
彼女が、自分になにを試しているのかはわからない。だが、嘘くさいことを言ってもバレるだけだと思った。正直に感じたことを話すことにした。
「意外だったのは、役割分担ができていることです。つまり、全員が適材適所にいる」
彼女は鼻で笑った。だが、すこし満足そうな表情に見えた。口角が上がっていたからだ。深いほうれい線がさらに際立った。
浅野は続けた。
「手先が器用であれば刺繍などの作業をする。口が達者であればセールスに回る。障害の重度によっても役割の分担ができているように感じました」
「意外だったか? 」
「はい、とても。ベトちゃんとドクちゃんのイメージが強かったので、もっと重苦しい雰囲気の場所だと想像していました」
「ヒヒヒヒ… そうか。障害があろうが、皆、生きていかなくちゃならないのでな」
「実際に、そういうことを言っている人もいました」
「生きるためなら、枯葉剤を使ったアメリカとも商売をするさ。今日を生きるためのメシの種が先だ。ヒロシマやナガサキもそうだろう? アメリカを恨みながら相手にしない生き方をしているのか? メシの種になるなら商売をするだろう? ベトナムも同じことだ」
浅野の想像を超えて、突然、話が重くなった。浅野は「はい…… 」とだけしか言葉にできなかった。ミセス・ブラックウッドは続けて言った。
「スウォンとフォアの話を聞く限り、お前はここで大人気のようだ。従業員は、皆、お前と話をするのが楽しいと言っている。刺繍工もお前の笑顔がとても良かったと言っていたらしいぞ。皆、ビジネスに徹しているから、全員がこんな感想を持つことも少ないのだが」
「え? 」
「スウォンの話を聞く限り、お前とは仕事をしても信頼はできそうだ。ただし、ひとりの男としてはつまらない奴かもしれないが」
浅野の心臓は鼓動を強く打った。実は日本でも、まったく同じことを言われたことがある。それも今までに何度も。そのうちの数回は女性に言われた。その度にフラれている。
外国でも、女性には同じように思われるのかとショックを受けた。これは何度言われても慣れることはない。
スウォンはすぐにベトナム語でミセス・ブラックウッドに何かを伝えた。彼女は少し驚いた表情でスウォンを宥めた。そのうち、まぁまぁというジェスチャーを見せた。
そして、やれやれという表情で英語を話し始めた。
「スウォンは…… 」と言いかけたところで、再びスウォンがミセス・ブラックウッドを止めた。
なにか困った表情をしたスウォンを制して彼女はニヤつきながら、再度話し始めた。
「 ……まぁいい。お前、とにかく伽羅を買っていけ」
「え?! 伽羅? 香木のこと? 」
「そうだ。私は政府から許可を得て高品質の伽羅を売っている」
浅野はこの時、気づいた。建物に入ってきた時、中は殺風景だと感じたのにもかかわらず、香りはとても高尚なものだったことに。
あの香りは伽羅だったのだ。
「香木…… 興味がないことはないですが、まだ身分不相応だと思います。趣味にしては高尚すぎます。まだ仕事で大成功したわけではないので」
「お前は本当につまらないヤツだな。社長だったら、このぐらい嗜んでおいて損はないぞ」
「いやいや、趣味としてはレベルが高すぎます。大企業の社長さんがやることだと思います」
浅野は伽羅がとても高価なものであることは知っていたが、それ以上に面倒なものであることを懸念していたのだ。伽羅はワシントン条約が絡んでいて、業者でもないのに日本に持ち込めば税関に目をつけられる可能性があると思った。
つまり、仮にミセス・ブラックウッドが正規の販売を行なっていて合法だとしても、高価な香木の持ち込みをすれば日本税関では目立ちすぎ、今後のベトナムへの入出国の際に支障が出る可能性があると思ったのだ。
もしもそうなってしまえばオフショア開発どころではない。その時、浅野はある新聞記事を思い出した。
「香木を買うことはしませんが、植林はどうですか? 」
「植林? 」
「はい。確か、伽羅は伐採が問題になっていて、ベトナムは積極的に植林を進めているという記事を読んだことがあります。そちらの方なら、いくらか出せると思います」
「……お前らしいが、やはり男としては面白くないヤツだな」
スウォンがまたベトナム語でミセス・ブラックウッドに何かを話し始めた。言葉はぜんぜん理解できないが、熱心に説得しているように浅野には見えた。
会話は長かった。すこし口論に近い様に感じた。
浅野が知っている単語はなにひとつ出てこなかった。品位ある香りだけが、このクーラーが効いているこの部屋を包む。こんな経験は初めてだった。
「わかった。植林で手を打とう…… このためにお前をここまで案内させたわけではないが」
しぶしぶ、渋々、ミセス・ブラックウッドが浅野に英語で伝えてきた。長かった会話はやっと終わった。
「植林の件はフォアに手続きをさせる。刺繍絵を買って行く時に、一緒に支払ってくれ…… 」
「はい」と浅野は答えようとしたが、一瞬先に部屋のドアが開き、女性の声が聞こえた。
「はい! 私が手続きします! 」部屋に入ってきた声の主はフォアだった。話を部屋の外ですべて聞いていたようだった。
ミセス・ブラックウッドは当てが外れたせいか「早く帰った、帰った」とばかりにシッシッと手でジェスチャーをみせた。
部屋から出ていく3人を見ながら、ミセス・ブラックウッドは浅野の背中に声をかけた。
「お前のビジネスは、本当にこれから大きくなっていくのか? 」
「え? 」
さっきまで目立っていた彼女のほうれい線は、普通に戻っていた。もう口角は上がっていない。彼女の視線は冷ややかとなり、さらに表情は呆れ顔で浅野に軽くバイバイと手を振っていた。
部屋から出ると、フォアだけがなにやらベトナム語でスウォンに話しかけて、違う方向へといってしまった。浅野はまたスウォンと二人きりになった。
「スウォン、さっきベトナム語でどんなことをミセス・ブラックウッドに言っていたの? 」
スウォンはちょっと考えてから言った。彼女の顔は少し紅潮したように思えた。
「このあと、買い物が終わったらまたホーチミンに戻る。市街を回って夜になったら鉄道でニャチャンに戻る」
スウォンはそう言うと早足になってしまった。浅野は列車の中の時のように、慌ててスウォンの後を追いかける形になった。スウォンの背中しか見えないため、その表情を見ることができなかった。
刺繍絵やほかの小物を選び、浅野が会計を済まそうとするとアオザイから着替えたフォアがレジを代わった。
「あれ、着替えた? さっきの植林の分もお願いします」
浅野が日本語でフォアに話しかけると「はい」という返事とともにレジを打った。金額は現地ではまあまあの値段だったろうが、日本円で考えるとそう高いものでもなかった。それが逆に、浅野が領収書のゼロの数をなん度も数えることとなったのだが。
周囲を見回したが、フォア以外のセールスたちはほかの観光客の接客をしていて、もう浅野の方には誰も来なかった。
浅野は心の中で(現金なものだな…… 売ってしまえば、それで終わりという感じなのか)と自然と苦笑いになった。そして何事もなかったかのように浅野達は建物を出た。
外で待っていたコンが浅野の顔を見て言った。
「いっぱい買いマシタネ。一人、女性も買っちゃいマシタカ? 」
「え? 」
コンの言葉に浅野が後ろを振り返ってみると、大きなボストンバッグを背中に背負ったフォアが右足を引き摺き、フラつきながら歩いていた。
「フォア、オレが持つよ ……というか、こんなデカいバッグどこで買ったの? バラエティの小道具みたいに見えるけど…… 」
「スミマセン、もっとゆっくり話してクダサイ…… 日本語、わからないですカラ…… 」うめきにも似た声でフォアが返答した。
フォアの持ってきた巨大なバッグをバンに積み込み、浅野が中に乗り込もうとすると既にスウォンとフォアがシートに座っていた。
「今日でここで働くの、終わりナンデス。ニャチャンに帰りマス」
「え? そうなの? 」
「はい」
「へぇ、そうか…… え? ということは…… 」
「いっしょに列車で帰りマス」
「 ……なるほど(帰りはあの客室に3人か)」
バンの中ではスウォンとフォアのベトナム語の会話が盛り上がっていた。それをみて浅野は、きっと列車の中でも同じ様な感じになるだろうと想像した。
時々、いま何を話していたのか、というのを日本語でフォアが『通訳』してくれた。
フォアの話によれば、という前提ではあるが二人とも大した話はしていなかったことがわかった。浅野は心の中で(どこの国もあまり井戸端会議の中身は……)と思った。
ホーチミンに着くと、かなり立派なホテルの前で一旦バンから降ろされた。ずっと同じ体制だったためか、体を伸ばすと思い切り解放感がやってきた。身体中に血液が駆け巡ったような気がした。
フォアがホテルのフロントでミセス・ブラックウッドの名前を出すと、あっさりとホテルの一室を列車の出発前まで使用できることになった。実際、そのようなサービスが普段から利用できるのかどうかは定かではない。
「ミセス・ブラックウッドって顔が利くんだね…… スウォンもフォアも、彼女とはどういう関係にあたるの? 」
「その日本語、ちょっとわからないデス。すみません。どういう意味デスカ? とりあえず、発車の時間までホーチミン市街に行きマショウ」
「え? あ、分かった。じゃ、列車の時間まで」
その後はコンが運転するバンでホーチミン市街を案内してもらった。なぜかクルマはさっきまで乗っていたバンとは違い、新型で快適だった。最初からこのクルマを使ってくれば良かったのに、と少しばかり不満を感じた。
浅野は正直、慣れない夜行列車の旅の疲れもあったので、急に睡魔に襲われて始め、どこに行ったのかはあまり記憶にない。憶えているのは夜行列車の中で食べる3人分の食料を浅野が支払ったことだけだ。
ホテルでシャワーを浴びた後、仮眠を取ると気づいた時には窓の外は夜空だった。
若者が多く、活気あふれるホーチミン駅から三人は列車に乗った。今度はスウォンとフォアの3人で4人部屋を使うことになる。上段の片方に三人分の荷物を置き、もう片方は浅野が使った。スウォンとフォアは下の段に寝そべった。
(往路と違ってずいぶんと圧迫感があるな…… )
往路に比べると天井との距離も近く、大柄の浅野にはさらに窮屈に感じた。
だが、客室の中では、時折、スウォンとフォアの会話を日本語でフォアが浅野に伝えてくれるので行きの列車よりも気は楽だった。
ただ、スウォンとの二人きりになる時間がなくなってしまったことには、浅野はどこかガッカリ感を否定することはできなかった。
ずっとスウォンはベトナム語でフォアと話している。そんな中、時々、すぐ下の段にいるフォアが気を使っているのか日本語で話を浅野に振ってくれる。
その度に二段ベッドの上から浅野はひょっこりと顔を出して、返答する。
浅野は学生時代の修学旅行を思い出した。もっとも、旅館の二段ベッドに女子はいなかったが……
スウォンたちとの会話で浅野の記憶に一番残っているのはベトナムが国を挙げてITに力を入れていて、ハノイ工科大学などの学生たちが一生懸命に海外企業と働ける様に勉強しているという話題だ。
「大学で勉強するのに、一年間で学費はそのぐらいなんだね? それだったら、僕の考えているベトナムとのITビジネスが上手くいけば、学生に大学への奨学金をいくらか出せるかもしれない」
浅野の言葉に一瞬、間が空いた。そしてすぐにフォアは興奮気味に、スウォンに浅野が何を言ったのかベトナム語で通訳した。浅野の位置からはスウォンは斜め下にいるので彼女の表情を見ることができた。
スウォンの大きな二つの瞳がさらに大きくなった。そして、浅野を見上げた。驚いた表情のまま、じっと浅野が横になっているベッドの方向を見つめて黙ってしまった。
浅野はこのとき、フォアの目が少し涙目になっていたことを知らない。
「アサノ社長、いい性格してマスネ」
浅野はフォアに日本語だと、その発言はちがうニュアンスになることを説明した。
食事が終わり、フォアが歯磨きにいっている間、浅野はこの復路で初めてスウォンと二人きりになった。だが往路の時とはスウォンの表情が柔らかくなっているような気がした。
「全部、ありがとう」
スウォンが自分が使っているベッドの上で浅野と目も合わせずに英語で言った。浅野は彼女から話しかけられることに慣れておらず、心の隙を取られた。
「え? え? なに?」
浅野がベッドから顔を出し、スウォンの方を見ると彼女は浅野の方を見上げた。浅野はスウォンと目が合った。スウォンは目を逸らさずに、なにかを言おうとしていた。
その時、フォアが帰ってきた。
スウォンとの会話は、そのまま終わってしまった。なにやら照れくささもあり、そそくさと浅野は二段ベッドから降りて洗面所のある車両へ向かった。
往路の時のように列車は揺れるが、一度経験している。客室の壁に何度かぶつかりそうになりながらも洗面所に辿り着いた。
「スウォンはベトナム語だとけっこう話をするんだな。相手がフォアだからか? 」
鏡に向かい、歯磨き粉のチューブをつまみながら浅野は呟いた。それはまるで自分に問いかけるかのように。
「ま、いっか」
客室に戻ると、スウォンとフォアは引き続き話をしていた。
浅野は昨日スウォンが見せてくれたようにベッドの上段に登り、さっと横になるとさすがに瞼が重くなった。スペースが狭いので、伸びをすることもできなかった。
一気に疲れが出た。
(なんか二人にかける言葉はないかな……)
浅野は両方の瞼が重くなるのを感じながらも、話し続けるスウォンとフォアになにか声をかけようとタイミングをはかっていた。
意識が薄れていった。
フォアに声をかけられ、スウォンに体を揺すられて目を開けた時には、もうニャチャン駅が迫っていた。
なぜか、浅野の体を揺すっている時のスウォンの表情がいたずらっ子のような無邪気な表情だった。






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