0人が本棚に入れています
本棚に追加
小さな翼
晴れた日の午後の教室の窓際で、親友と笑いながら話している、その子の背後の足もとに、ふわりと柔らかそうな白い羽根が着地したのを、僕は見た。
本人は気が付いているのかいないのか、あるいは、僕が勝手に見たくて見た幻なのか、いずれにしても、それはきっと、その子の背中から抜け落ちたひと欠片なのだと、信じて疑わなかった。その一片の羽根が、彼女自身の足で踏みつけられはしないかとひやひやして、僕は思わず手を伸ばして拾い上げようとした。
はっきりとした感触があるほど、質感が感じられないそれは、しかし、確かに手に取ることは出来た。しげしげと眺めてみて、僕の手の中にある。幻などではない。
彼女は、背後の僕の存在に気付いて、振り返る。
「どうしたの?」
不思議そうに瞬きをするその間に、僕は拳の中にその羽根を隠し、一瞬で言い訳を考えた。
「消しゴム落としただけ」
「そう」
にこりと微笑んだ彼女は、僕に背を向け、また友人との談笑に戻った。
自分の席に戻った僕は、あまりにもその拳の中に感触がないために、羽根は消えてしまったんじゃないかと、恐る恐る拳を開いて確かめる。
消えてなどいない。まだ確かにある。
ねえ、君、これ本当は君の背中から落ちたものだろう。
どうしてそう聞けなかったのだろう。頭のおかしいやつだと思われたくないという思いも確かにあったけれど、それ以上にきっと、誰かに聞かれたらまずいだろう、そんな風に勝手に考えてしまった。
帰ってから、その羽根がなくならないように、どこに仕舞っておくのがいいかといろいろ部屋の中を探した。棚の奥の方で埃を被って、静かにそこにあったブリキの缶。小さな頃に集めていたビー玉やがらくたなんかが入っている。目につかないところにあるというわけでもないのに、普段全く頭の隅にもない。
ぴったりのようだけど、これでは駄目だ。何かとても大事なもののように思えても、きっといつか忘れて、捨ててしまうかもしれない。
そういうものにはしてはいけない気がした。これはきっと、彼女のとても大事な秘密の欠片だ。そこでふと目に留まったのか、何度も繰り返し読んだ、天使の話の本だった。栞のようにここに挟んでおけば、きっと忘れもしないし無くなりもしない。
天使の挿絵がかかれたページに、真っ白な羽根を挟み込んだ。
そうして閉じ込めたのが、十七歳の初夏のこと。
卒業式の日まで、僕達はその話を一切することはないままだ。結果として、僕はその日まで、あの羽根のことを忘れたことはなかった。
毎日彼女を教室の中で見ていれば、忘れるはずもない。
卒業式も、最後のホームルームも終わり、みんなは教室を出て、校庭や校舎のどこかで別れを惜しんでいる。残っていたのは彼女だけだ。黒板にみんなが残した落書きをしげしげと眺めている。
「友達と一緒じゃなくていいの?」
僕が声をかけると、こちらを振り向いた。
いつも楽しそうに友達に囲まれておしゃべりをしている、そんな子だったから、こんな時に一人でいるとは思ってもみなかった。僕にとっては、誂えた機会のように。
「うん、先に行っちゃった。私はもう少し、ここにいたくて。最後にここの欠片を、一杯集めておきたいんだ」
ぼくは片手に持っていた文庫本を開いて、挟んで持って来たあの羽根を彼女に見せた。
「ずっと聞けなかったんだけど、これ、君のだよね」
本のページの間にある羽根をまじまじと見つめてから、彼女はきょとんとしていた。
「違うけど」
「え……」
どうして僕は、否定の返答が返って来るとは思わなかったんだろう。絶対にこれは、彼女のものだと思っていた。だから、こちらが面食らってしまう。それがはっきり彼女にも伝わったのだろう、表情が少し不可解そうに歪んだ。
「どうして、私のだって思ったの?」
「君の足元に落ちたんだ」
「どこから落ちて来たの?」
「……さあ、それは見てない」
よく考えてみれば、彼女の背中から落ちて来たなんていうところは、見てもいない。それでも、どうしても彼女のものであるということ以外は考えられなかった。
「何かの鳥の羽かな。窓から入って来たとか」
そんな一番思い至りそうなことすら考えが過らなかったし、今もそれはあり得ないと思ってしまう。
「こんな白い羽の鳥、町中にいるかな」
「そうだよね、鳩だって白くないし。なんだろうね」
僕は再び本のページの間に真っ白な羽根を挟んで、パタンと閉じた。これ以上しつこく問い詰めることもないだろう。真相はわからずとも、僕の中で彼女のものだと思っておけば、それでいいような気もする。
なかなか簡単にできる話でもないのも、理解できる。
「もう行こうか。それとも、もう少しいる?」
「ううん、行くよ」
机の横にかけてあった鞄の中に本を仕舞って、二人で教室を出た。本当に、これが最後だ。同じ学校の制服を着て、この校舎の廊下を歩くのも。階段を下りるのも。
彼女と喋るのも。
階段を下りながら、彼女は何げなく言った。
「進学するんだっけ」
「うん。君は?」
「私は……遠くへ行くよ」
「遠くって?」
「遠くは遠く」
その曖昧な物言いに、僕の胸は変にざわめいた。鞄の中の本に挟まれた羽根が、何かを告げているように。
「本当はちょっと怖いよ。この先のことも、ここを離れるのも」
階段の踊り場で、彼女は一度足を止めた。それ以上進むのを拒むように。少し先を進んでしまった僕は、階段を一段降りたところで足を止める。
何と言えばいいだろう。僕は慎重に言葉を選んだ。
「それは、知らない場所なの?」
「たぶん……知ってる。でも、知らない」
「なんだよ、それ」
「だから不安なの。ちゃんとやれるかどうか」
「起こってもいないことを不安に思ってもしょうがないよ」
こんな気休めの言葉こそしょうがない。そう思いながら、どこかその言葉から逃げ出したかった僕はまた先へと階段を下りていく。
慌ててそれに着いてくるように、また足を進めた彼女は、階段を何段か降りたところで、つんのめった。
「……わっ!」
ぐらりと体が揺れ、このままでは階段を転がり落ちて、叩きつけられてしまう。咄嗟に受け止めようにも、間に合いそうにない。それよりも、最悪の事態を回避する方法を、僕は知っていた。
「……はっ……羽ばたけっ!」
僕がそう叫んだ瞬間、彼女の背中から、真っ白な二つの羽根が現れた。大きくはない。羽ばたくには、小さいかもしれない。
けれど、思っていたより飛距離は伸び、階段の途中の僕を追い越しそうになったところで、力尽きたのか、彼女は急降下した。
いけない。
僕は足が動く限りの速さで、急いで階段を下りた。間に合うだろうか。彼女はそれでもまだ踏ん張っていて、急激な落下をなんとか免れようと、空でフラフラしている。だが、それも長くは続かない。
僕は何とか彼女を追い越し、階段の下までたどり着くと、彼女が落ちそうな場所の下まで来て、両手を広げた。
もしかしたら、彼女は安心して気を抜いたのかもしれない。とうとう羽根の動きは止まり、まっすぐ僕の腕の中に飛び込んで来た。
抱きとめると、勢いを殺せず、そのまま二人とも倒れてしまったが、不思議と何も重さを感じない。だから、倒れた時の衝撃も軽かった。重力というものを感じないくらいに。これならば、落ちたところで彼女は怪我などしなかったかもしれない。
僕にしがみついていた彼女は、起き上がって離れると、少し気恥しそうに、背中の羽を隠すように、手を後ろに回した。
小さな羽根でも、それでは隠し切れないくらいには大きい。
一つ、抜け落ちて、ふわりふわりと舞う。
「やっぱり、あの羽根は君のだったじゃないか」
「ごめん……知られないように、嘘をついた。こんなカッコ悪い羽根のことなんて」
「カッコ悪くなんかないけど」
「嘘だ、まともに飛ぶことも出来ないのに」
それに関しては、下手な弁護も出来ないので、苦笑するしかなかった。
「まあ、確かにこれは……ちゃんとやれるか不安にもなるよね」
「うん」
しょげて俯くのが、なんだか可愛らしくて、僕は笑ってしまった。彼女はむっとして、睨みつけて来たけれど。
「でも、ちゃんと飛べてたよ」
「ちゃんとじゃないよ。もっと小さな子だって、上手く飛んでるのに」
「一生懸命飛んでいれば、こんなふうになんとかなるよ」
「今は、君がいたから……」
羽を隠そうと背中に回していた手を、彼女はこちらへ伸ばして来た。僕のことを起こすために、手を引く。
立ち上がりながら、僕は彼女のその小さな羽根を見ていた。その手を離すことが、いつまでもできないままで。
「僕はあの本に、ずっとこうして君の落とした羽を挟んでおくよ。君が一人じゃなくなるように。僕がこれを見つけたのは、きっとそういうことだったんだって、勝手に思っておく」
廊下の窓から差し込む傾いた陽が、真っ白な羽根を黄金色に染めていく。きっと、彼女は大丈夫だと、根拠のない確証が、僕達の手を離させた。
「ところで、どうして天使がこんなところにいるの?」
「どうしてかはそれぞれだけど、本当は、わりとどこにでもいるよ。わからないだけで」
「そうなの?」
「うん。私だって見分けられるわけじゃないけど、ここにやってきた天使を何人か知ってるし」
「どこから来たの?」
また歩き始めた彼女は、そっと自分の唇に人差し指を当てた。
「それは、言えない。言ってはいけないというより、説明が出来ない。だから、遠いところとしか言えない」
「空の上とか、そういうことじゃないの」
「空の上は、宇宙だよ」
「そりゃそうだけど」
遠くの方で、どこか別の世界のような他の卒業生の声が聞こえる中、二人の足音がちぐはぐに廊下に響く。ハーモニーにはならない。
「私からも質問」
「何?」
「私はわざわざ否定したのに、どうして天使だって疑わなかったの? そんなの、本当にいるってどうしても信じて疑わなかったのは何でかな」
僕は直ぐには答えられなかった。
「あの羽根は、どう見ても鳥のものじゃないと思っただけだよ」
「ふーん」
こんな雑な返答でも、彼女はしつこく追及をしてこない。答えられないことは、僕にもある。気が付いた時には、彼女の背中の羽根はまた消えていた。
だから、ちゃんと彼女の羽根を見たのは、この時一度きりだった。
最初のコメントを投稿しよう!