片方の翼

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片方の翼

 毎晩、夜眠る前に、窓を開けて、彼女の欠片である羽根が挟まった本のページを開く。そして、月明かりに、どこかにあるらしい遠い場所で、彼女が上手くやれていることを祈る。そんな時間が、僕の一日の中に生まれた。  今日は満月らしい。気まぐれにベランダに出て、月を眺めていた。 「僕は同じものに初めて会ったんだよ」  独り言は、どこにも響かない。  久しぶりに、左側にしかない羽を広げてみる。右側は骨だけ。生まれたての頃に、路上に置き去りにされていて、カラスに齧られ、右側の羽根の全てをむしり取られた。自分の記憶には全くないから、最初からこうだったようにも思うけど、赤子の僕を見つけた人間が言うには、烏が左側にも食らいつこうとしていたところを、助けてくれたらしい。  そこで僕はこう考えたこともある。羽根を持たぬ人間というのは、自分も知らぬうちにこうして羽根をむしり取られた天使なのではないか。同時に、自分が天使だったことを忘れてしまう。  片方だけ残ってしまった僕は、どちらにもなれない。  僕はどこから来たんだろう。どうしてここへ来たんだろう。  知っている者はいないし、仮説を立てながらも、どこかでそれを否定して、同じものもこの地球上にはいないのだろうと思っていた。彼女よりよっぽど隠しておかなければいけないこの翼を、助けてくれたその人間以外には見せたことはないから、他の天使がいたとしても、僕のことには気づかず、だから僕の方も他にいるなんて思わなかったのは当然だろう。  君はきっとかくれんぼが下手糞だったんだな。  口に出しているつもりも全くなかったし、いずれにしても聞いている人間などいないはずなのに、すぐそばで返事が聞こえた。 「そうだね、だから、地上に落とされた」 「……え……」  ベランダの縁に、彼女は座っていた。あの時より幾分か大きくなった翼を背中に携えて。  ただ呆けているだけの僕に、あの時のように微笑みかける。 「迎えに来たよ」  こちらへ伸ばされた手を取ることも出来ず、ぼんやり見ているしか出来なかった。 「迎えにって……どこかへ行くの?」 「連れて行ってあげたかったんだ。君が生まれた場所へ」  遠い場所、としか言えない場所。僕が生まれたかもしれない場所。ずっと、想像するしかなかったそこが、僕にとって現実になろうとしている。  その手を取れば。 「でも、そこが素敵な場所だとは言わないよ。地上に『落とす』だなんて言って、自分達が崇高だと言い張る傲慢なものの居場所だもの。だけど、君は自分のいる場所を自分で選ぶために、連れて行きたいと思ったんだ。あの時の私じゃ無理だったから、私も私を選ぶために、一度帰った。君が『羽ばたけ』って言ってくれたあの時、私のこの選択は間違ってないと思えたから。迎えに来たよ。……待たせてごめん」  それでも、彼女が目の前にいることも、ずっと思い描くしかなかった場所へ行けることも、僕にとっては現実味がなく、未だに彼女の手を取れずに、呆然としているしかなかった。  だって、僕は。 「見たらわかるだろう。僕は飛べない」  左側の羽根は、動いて空を揺らすけれど、右は骨だけで、風はすり抜け、動くことはない。 「だから、私が連れて行く。一緒なら、飛べるよ」  ただただ、心臓の高鳴りが、最後の一押しをして、僕は彼女の手を取った。背中の羽根が大きく動き、彼女は宙へと浮き上がる。繋いだ手に引っ張られるように、僕も浮き上がった。  僕も僕なりに、自分の左側の翼を出来る限り動かすと、今までに感じたことのない軽さ。自分の翼で飛び立った、彼女を抱きとめた時のように。今の自分もまた、重さや重力をベランダの隅に置き去りにして行っているような感覚だ。  重力に引っ張られて落ちる、という不安が湧き上がって来ない。  僕達の行く場所は、月の向こうなわけでもないだろうに、月の方向を目指して、夜の空を駆けていく。  どこにあるかもわからない場所でも、どこへでも、きっと行ける。そこが、居心地がよくて、最悪な場所でも。本で見た世界でなくても。  僕らの影は、暗い空に溶けるように消えた。
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