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げっそりとしていた。
毎晩毎晩夜泣きが治まらない我が子。夫は「明日も仕事」だと言ってさっさと寝てしまい、夜になんとか泣き止んで欲しくてリビングでうろうろしていても、気に止めやしない。
大切な我が子ではあるが、ワンオペで育てるのは無理だった。
世の中には孫のために、わざわざやってきて孫の面倒を見てくれる祖母もいるらしいが、愛子と夫の両親はどちらも遠い場所に住んでいるために、一朝一夕で孫の世話なんてしてくれない。
毎日毎日荒れていくリビングで、愛子はメランコリーになって、我が子と一緒に泣いていた。
その日は星が綺麗で、なんとか泣き止んで欲しくてベランダに出た。
「ほーら、まいちゃん。お星様ですよぉ」
金平糖をばら撒いたような星空だけが、今の救いだった。
夜風に当たったせいなのか、はたまた空に浮かんでいる星に目を奪われたのか、まいはようやっと泣き止んで、無邪気に笑い出した。
そんなときだった。
「……え?」
愛子はふんわりとした甘い匂いが漂ってきたのに、目をぱちくりとさせた。
甘い匂いは、バターとメープルシロップを混ぜたような、優しい匂いをしていた。こんな時間にお菓子でも焼いているんだろうか。
普段であったら疲労困憊でそのまま家に戻ってまいの添い寝をしているだろうが、そのときは気が高ぶっていた。
その匂いを追いかけよう。まいを抱き締め、上着を着て、娘もおくるみで暖かくしてから、戸締まりを確認して出発した。
思えば、子育て期間中は家とスーパーマーケット、小児科ばかりですっかりと愛子の世界は狭くなっていた。
夜に冒険できるのは、本当に久し振りだったのだ。
****
住んでいるマンションを抜け出し、歩くこと五分。
甘い匂いの立ち込めた、掘っ立て小屋が建っていた。普段小児科に通う際に通っている道だが、こんな掘っ立て小屋は見たことがない。
怪しくって、そのまま見なかったことにして帰ろうかとも思ったものの。娘のまいはその掘っ立て小屋を見た瞬間、「キャッキャッ」とはしゃぎはじめたのだ。
怪しかったらこの子を抱いてすぐに逃げよう。そう意を決して愛子がドアを開けた。
「いらっしゃーい。あらぁ、今夜は可愛いお客さんねえ」
「……へっ?」
そこはお客さんがたんまりと詰まったカフェだったのだ。
四人席がふたつ。カウンターには五人腰掛けられる。四人席は既に満席であり、カウンターにだけわずかに隙間がある。
カウンターの中でくるくると配膳や注文を受け付けているのは、髪をひとつにまとめたカラリとした美女であった。真っ黒なワンピースに真っ白なカフェエプロンを巻いているその姿は、妙に様になる。
その人はのんびりと言った。
「赤ちゃんはミルクで大丈夫?」
「ええっと……はい」
「お客さんはご注文はどうしますか?」
「ええと……」
そう思ってチラチラと他の席を見た。
四人席で静かに食べている人々は、パンケーキタワーを一生懸命切り崩して頬張っていた。アイスクリームにベリージャム、生クリームもどっしりと積まれたそれを、一枚ずつ食べるのは骨が折れるだろう。
他にもワッフルを一生懸命食べている人、パフェにスプーンを突き刺して目を細めている人、卵サンドを夢中で食べている人が目に留まった。
そこで愛子は、子育て休暇中、カフェメニューなんて全く食べていなかったことを思い至る。そしてまいを抱っこしたまま食べられないと、どうしようと途方に暮れた中。
「赤ちゃん、しばらく預かりましょうか?」
ひょっこりと出てきたのは、店長らしき美女と同じく、真っ黒なワンピースに真っ白なカフェエプロンを巻いた、和やかそうな女子だった。
愛子がおずおずと預けると、店員はまいをあやしはじめた。まいはキャッキャとしている。それを見て、愛子は思わず泣き出してしまった。
今の愛子の世界は、愛子とまいだけだった。夫は何度「たまには手伝って」と言っても聞いてくれず、汚くなったリビングで、必死になってまいの世話をするだけだった。愛子は夫の料理はかろうじてつくれても、自分の食事はほとんどつくるタイミングがなくて、夫が必ず食べる朝食と夕食は食べていたものの、昼食を食べる暇がなかったのだ。
愚痴りたくても、愚痴る場所がなかった。
替わってと言っても、替わってくれる人がいなかった。
それをいともたやすくこの夜カフェの店員がしてくれたのだから、愛子は思わず泣いてしまっていた。
「あらあら、思い詰めてたのねえ……どうする? 自分にご褒美にケーキとかにする?」
「……カフェに来るの、久し振りなんです。パンケーキタワーと紅茶、お願いします」
「はあい、了解しました。ちさちゃん。赤ちゃんにミルクあげてね」
「はあい」
こうして、ちさと呼ばれた店員がまいの面倒を見ている間、愛子は独身時代に戻ったかのように、紅茶とパンケーキだけに集中できたのである。
パンケーキは時代によって主流が違う。薄くてもっちりとした生地は、存在感があるのに何枚食べても苦しくて胸焼けしない。アイスクリームたっぷりの冒涜的なもののはずなのに。
そう思いながらアイスクリームを食べて、気がついた。
「これ……ヨーグルト?」
「あら、気付いちゃった? これはアイスクリームというよりもフローズンヨーグルトねえ。フローズンヨーグルトもきちんと水切りして使えばコクは出るし、アイスクリームよりもカロリーは控えめだから、あんまり罪悪感覚えずに食べてもらえるかなと思ったの」
「そう……だったんですか」
「パンケーキタワーをただのSNS映えだけに終わらせず、最後まで食べ終えてほしいものねえ」
「……はい」
紅茶はパンケーキタワーに合わせてか、比較的濃い味で華やかだった。パンケーキのフローズンヨーグルトやベリージャムに負けないような味付けとなったら、コクの強いものになるのだろう。
むしゃむしゃと夢中になってパンケーキタワーを食べ終えた頃、愛子は久々の満足感を覚えていた。
最近は一日二食の日ばかりで、おやつなんて食べている暇がなかった。おやつを食べる暇があったらまいのおむつやミルクについて考えないと駄目だったし、まいが寝ている時間しか洗濯も掃除もできないのだから、いつだって赤ん坊優先だったのだから。
「……ごちそうさまでした」
「はい、お粗末様。あんまり自分のことを責めないでね。あなたはちゃんとやっているから」
「……はい」
ちさと呼ばれた店員が「いい子にしてましたよ」とまいを返してくれる。まいは液体ミルクをもらい、満足したらしくてすやすやと眠ってしまっていた。もう夜泣きはしないだろう
。それを見て、愛子は笑った。
「ありがとうございます」
「またいらっしゃい。ここ、どうせしばらく繋がっているだろうし」
「はい……?」
繋がっているとはなんだろうと思ったものの、愛子は深く考えるのを辞めた。
会計を済ませ、愛子はまいを抱いて歩いて行く。パンケーキを腹に入れたせいか、一日二食で疲労困憊だったはずの体が軽い。今ならまいを連れてどこまでだって走れそうだが、今は家に帰りたかった。
「そういえば……あの店」
愛子は振り返った。
掘っ立て小屋は相変わらず存在し、賑やかそうな光を放っていた。
愛子は首を傾げた。
「こんなところに出してよかったのかな……あそこ、問題の多い地主さんがいたはずだけれど」
ケチな地主が、どれだけお金を積んでも土地を売らず、貸すの一択で、住宅街を支配していた。掘っ立て小屋なんか建てて、地主に意地悪されないんだろうか。
そればかりは少し心配したほうがよさそうだ。
****
夫は愛子が家を抜け出して、パンケーキを食べに行っていたことについて、なにも知らなかった。朝起きて、もしゃもしゃとパンを食べているのを眺めながら、愛子はまいに液体ミルクをあげつつ尋ねた。
「あのさ、近所に夜カフェってできてたっけ?」
「うん?」
「あの気難しい地主さんのところ。知らない?」
愛子の問いかけに、夫は目を瞬かせた。
「あんなところにカフェなんかつくったら、あの気難しい地主のことだから、なんとしても追い出そうとするだろ。夜に人が集まるのを嫌う人だから」
「あああああ……」
夫が出かけたあと、愛子はまいが起きない内に家事を済ませ、ふたりで小児科に出かける。
「夫はああ言ってたけど……どうなのかしら」
「うーあー」
愛子の問いかけに対して、まいは指を差したのに、思わずその指先を追いかける。
昨日あれだけ一生懸命食べたパンケーキタワーのある喫茶店は、忽然と姿を消していた。
子供を産んだことを褒めてくれたのも、ひとりで頑張っていることを応援してくれたのも、そもそも家族以外で久々に口を開いたのも、この店くらいだったのに。
愛子はどうしてもやるせなくて、ポロリと涙を流したのだった。
<了>
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