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4・恋に堕ちた天使
「奥さんは、船上のセラピストだったそうなんです。地中海とか、エーゲ海とか、世界中の海を巡る豪華客船の。でも、ずっと海外にいるわけではなく、7ヶ月に一度日本に帰ってきて、数か月休んだらまた出港する……そんな生活を送っていたそうなんです」
彼は、『まるで渡り鳥のような人だった』と言っていた。待っている間も、連絡が取れたり取れなかったりするのだとか。
私だったら耐えられない。すごいと言った私の言葉に、彼は言った。学生時代から長い時間を掛けて交際し、結婚し、お互いの夢を共有してきたから可能だったと。それから、『僕には夢と言えるような夢は、なかったんだけどね』とも。そんなところが、私に似ている気がした。
「……船が、転覆してしまったそうなんです。海の中から引き揚げられた時にはもう……。何とか日本に帰って来たけど、彼が20代の頃からずっと眠り続けているそうなんです」
『教え子に偶然会ったんだ』と、眠っている彼女に自然に語り掛ける彼の姿が忘れられない。そうやって来る日も来る日も、その日の出来事を語っていたのかと思うと切なくなった。
それから、彼は時々奥さんの話をするようになった。
これまで誰にも打ち明けていなかったからか、思い出を懐かしむように、楽しそうに話していた。私は、自分の気持ちがよくわからなくなってしまった。
話を聞くたびに、心は散り散りに千切れそうになりながら、愛おしさは募って行った。終着点の見えない恋。私はまた、好きになってはいけない人を好きになった。
「……一度だけ、手を繋いだんです。文化祭の買い物に出た時、急に雨が降ってきて。彼は、私の頭に自分の上着を被せて、歩幅を合わせるように走ってくれて……。その時間が、たまらなく幸せだったんです……」
私は、彼の中でどれくらい特別なんだろう。
携帯電話に残された幾つもの検索履歴は、私の心の表れ。
――傲慢で、身勝手な妄想。恥ずかしくて堪らない。気が付けば、涙が溢れていた。
「……なんで、みんな、私じゃ、ダメなんでしょう。私は、いつも、主人公になれないんです。でも、それも仕方なくて。私、心のどこかで――『奥さんの目が、覚めなきゃ良いのに』って。出来るなら、心の綺麗な人になりたかった。こんな醜くて、汚い……自分が大嫌いっ……」
それでも、一度で良いから、誰かに愛されたい。
笑ってごまかしたいのに、心に詰まっていた思いが溢れ出して上手く笑えない。
紗雪さんは、静かにカードを混ぜ始めた。
私は、涙を拭いながらその様子を眺める。
目の前で天使の羽が舞う。クルクルとかき混ぜられ、無駄なく均等に整えられていくそれを眺めていると、私の心まで整理されていくような不思議な清々しさがあった。展開されたカードをじっくりと眺め、紗雪さんが口を開く。
「……今から数か月以内に、素敵な出会いが訪れるわ。全く新しい世界で。前世から定められた、それこそ運命のような人」
紗雪さんがカードから視線を上げ、こちらを見る。そしてまた、悪戯な笑顔を見せた。
「……そう言ったら、あなたはどうする?」
「え……」
「それでも、その『先生』との未来を望むのかしら? それか……そちらは心の中に仕舞っておいて、新しい恋を掴みに行くのかしら?」
私は、少し考えた。悩んでいると、紗雪さんはぽつりと告げる。
「シェムハザイやアザゼルという『堕天使』の話を知ってる?」
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