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乳幼児編
息子はお腹の中にいる頃から胎動が激しく、お腹にエイリアンがいるのかと思うほど元気よくお腹を蹴る赤ちゃんだった。
そして調子にのってお腹の中で縦横無尽に動き回り過ぎた息子は、臍の緒がまきついて逆子になり、元に戻れなくなってしまった。
胎内記憶というのが何処まであてになるかはさておき、後に息子はこう語っている。
「早くでたーい!ってドコドコドコドコッ!っていっぱい下の方蹴ってたの!」
そんな息子の言葉通り、息子の強烈キックのおかげで子宮頚管がみるみる短くなり妊娠八ヶ月の頃、私は切迫早産で絶対安静となり結局逆子のまま元に戻らなかったので帝王切開で息子を産んだ。
断っておくが、自然分娩も帝王切開もどちらも命懸けの立派なお産だ。
きちんと下から産まないと子供に愛情が持てないという言説は私は非科学的で酷い誹謗中傷だと思っている。
しかし、全身麻酔で朦朧とする意識の中「可愛い男の子ですよー」と看護師さんにぬるぬるとした体液に塗れた息子の手を頬に押し付けられた瞬間、私は息子を可愛いと思うことが出来なかった。
手術は昼の十三時半頃、計画帝王切開だった。
手術は真夏、前日の夜から絶食はともかく、水分補給が一切出来ないのはとても辛かった。
出産の痛みは忘れると言うけれど、麻酔が切れて目が覚めた夜九時の痛みと苦しさを私九年経った今でも鮮明に覚えている。
「……水をください」
と訴えると、付き添ってくださっていた看護師さんは「ごめんなさいね、朝の六時まであげられない決まりの」と言ってガーゼに水を含ませたものをくれた。
喉が渇いて、痛くて痛くて、血栓防止につけられている足の器具はとにかく不快だった。
昼間麻酔でずっと眠っていたせいで、私は翌朝六時までほとんど一睡も出来なかった。
出されたものは白湯だった気がするが、あれほど喉が渇いていたのに半分飲むのがやっとで、看護師さんに「飲んでください」と叱られ、随分苦労して無理矢理全て飲み干した。
切られたばかりの腹の傷が痛くて、体を起こすのが辛く、何かを飲みこむどころではなかったのだ。
産院によって色々な方針があるようだが、私が息子を産んだ産院は子を産んだ翌々日から歩行訓練を始める所だった。
食事の度に身体を起こすのすら辛いのに、立って歩くのなんて冗談だろうと思ったけれど、看護師さんに「○○病院なんて翌日には立って歩かさせるんですよ。自分で立って歩いて赤ちゃんに会いに行ってください」と言われ、私は長い絶対安静で弱った筋力と、傷口の激しい痛みによろめきながら手すりで体身体を支えながら息子が寝かされている保育器のある部屋に何とか辿り着いた。
麻酔で意識が朦朧としていた時をノーカウントとすれば、私は息子と初対面だったわけだが私の感想は「痛い……早く横になりたい……」で、息子をじっくり見るどころではなかった。
子供の姿を見れば、私にも母性が芽生えると思っていた。しかし現実は違った。
痛くて痛くてそれどころではないのだ。
看護師さんが背後に立って見守っていたので「……小さいですね」と言うのがやっとだった。
「どんな大きさだと思ってたの?赤ちゃん見たことないの?」
と看護師さんに鼻で笑われたのをよく覚えている。
その日から母子同室が始まった。
息子はほとんど眠らず、とにかくよく泣く子だった。横になる暇もなく、ひたすら息子を抱き、不格好に揺れてみたがオムツを替えてもあやしても息子は泣き止まなかった。
後に息子はこう語っている。
「夜、電気消されるのが怖かった。明るいのが良かった」
赤ちゃんが言葉を喋れない状態で産まれてくるの、ほんと厄介だと思う。
閑話休題。私は母乳が出なかった。
しかし、息子が哺乳瓶の粉ミルクを手で押しのけて拒否して何が何でも飲まなかった為、私は何があっても母乳を出さざるを得ない状況に追い込まれた。
助産師さんによる母乳マッサージを受けたが、これがまた激痛だった。
私が思わず「痛い痛い痛い!」と悲鳴を上げると院長夫人の助産師さんは「こんなので痛いなんて言ってんじゃないの!」と私を厳しく叱責した。
しかし、痛いものは痛い。痛いんだから痛い。
泣きながら母乳マッサージを受けた甲斐があり、その日から私の母乳は出るようになった。
すぐに乳が張り、夜中には痛みを覚え、看護師さんを呼ぶと「あら、良かったわねー!」と笑顔で搾乳された。そうして息子は栄養たっぷりの初乳を飲み、私は世が世なら、乳母として天下をとれるような量の母乳が出るようになった。
母乳が出るようになったからには直接授乳をするようになるわけだが、母親が授乳するのが初めてなら赤ちゃんも授乳されるのは初めてなのだ。
痛い。乳首ちぎれるほど痛い。
しかし、息子は母乳ならよく飲んでくれたのでこのままハンガーストライキを続けて息子が餓死してしまったらどうしようと心配していた私はほっと胸をなで下ろした。
そしてこれは長く続く搾乳との戦いの始まりだった。敏腕院長夫人助産師様のおかげで母乳は出るようになったが、出過ぎたのだ。
息子が飲んでくれる分だけでは乳が張って痛くて痛くて母乳が漏れて母乳パッドはすぐにびしょぬれになり、AAカップだった私はなんだか四角いシルエットのDカップ(Eカップかもしれない)になった。
常に泣き叫び抱っこをせがむ息子。頻繁な授乳。その合間の搾乳。不慣れなオムツ替え。何度おしっこを浴びせられたか記憶にない。
息子を抱き上げる為に帝王切開を傷の痛みに悶え苦しみながら、ベビーベッドの柵捕まって何とか立ち上がる。
これが辛い。とにかく辛い。
寝ていても身体を起こしても座っていても痛かったけれど、立ち上がる時は本当に辛かった。
私は幸いにもとにかく母乳の出が良かったが、息子は母乳を吸うのが下手くそで、あっという間に両乳首がズタズタになった。
まとめて眠る時間も充分に休養をとる暇もなく、それでも息子は容赦なく「おっぱい飲みたい!」「入眠手伝って欲しい!」「抱っこしてほしい!」「オムツ替えてほしい!」「なんか不快!」「眠たいけど眠るの怖い!」と恐らく何かを訴えて四六時中泣いている。
育児、辛すぎる。
こんなにしんどいと思わなかった。
夫も父も母も姉も祖父母も息子を可愛い可愛いとちやほやしていたが、私は正直それどころではなく、とにかくまとまった時間眠り、腹部の傷の回復に専念したかった。
母性?母性って何?
母は強し?そんなのクソ喰らえだと思った。
しかし、息子は親の欲目を抜きにしてもとても整った顔をしていて美しい赤ん坊だった。
その為、客観的事実として「綺麗な赤ん坊だな」と思うことはあったが、所謂母性本能的なものが湧き上がってきて「可愛い!!」と思うことはなかった。
痛くて辛くて本当にそれどころではなかったのだ。
私は初産なのでよく分からないが、周りの経産婦達の声を聞く限りでは息子は育てにくい部類赤ん坊だった。
母親失格である。
とにかく四六時中泣いていてあれも嫌これも嫌と、すぐに癇癪を起こし、夜は一時間まとめて寝てくれれば良い方だった。
オムツを替え、濡れていないかチェックして、三十分かけて授乳。一時間かけて寝かしつけ。三十分横になるとまた息子が泣く。
夜はその繰り返しだった。
教師をしている夫は朝は早朝に家を出て深夜に帰ってきて、土日は部活。
所謂ハードなワンオペ育児だった。
「俺は寝てないんだからちょっと泣き止ませてくれない?」
「でも昼間は息子と一緒にお昼寝してるんだよね?」
「もうほんと勘弁して。俺疲れてるんだ」
あの頃夫に言われたモラハラてんこ盛りワードの数々は今でもはっきり覚えており、私は事ある毎に蒸し返し夫は「まだ言ってるの?ごめんってば」と反省の態度を見せているが、多分あの時の夫の言葉と表情は一生忘れないと思う。
一日中泣き止まない息子の泣き声に頭がおかしくなりそうになり、仕事中の夫にLINEで助けを求めたことがあった。
すると夫は「あのね、俺は仕事してるの。俺に何をしろって言うの?こういうのやめてくれる?」と私を冷たく突き放した。
それ以来、私は夫に頼ろうとするのやめた。
きっと一生恨むと思う。
そんなわけで、私は車の免許を持っていない為通院等の度に実母の手を時々借りながらも、ほぼほぼ一人で息子を育てた。
我ながらよくやったと思う。
一歳半検診で息子が引っかかり、発達障害の疑いを指摘されたのはそんな頃だった。
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