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2,昔の彼女
琥太郎が通っていたジャーナリスト専門学校、通称ジャナ専は、作家やライター、編集者、カメラマン等を養成する専門学校だった。彼は映像系の編集に興味があり入学したが、そこで出会ったのが生野真由子である。
おっとりした女で、おおよそ怒りの感情を前世に置いてきたような、穏やかで丸い人柄だった。可愛いや美人とは無縁の容姿をしていたが、琥太郎はその微睡んだ空気感に好感を持ち、二人が恋人になるのにあまり時間はかからなかった。
背が低く、丸々と太っていた琥太郎はお世辞にもモテるタイプではなかったが、人当たりの良い性格と、浅く広い知識は真由子との愛称が良かった。二人は同じクラスの天音千紗や黒木誠二と共に四人のグループを作り、少しずつ級友の仲を深めていった。
誠二は一年中、日に焼けた彫りの深い二枚目で、歯が白く女子にも大層人気があった。そんな男がパートナーに選んだ千紗も気の強そうな美人で(実際に強かったのだが)、誠二と仲良くなっていなければ、琥太郎と会話する機会は永久にこなかっただろうと、本人の口から聞かされ、彼もその意見には同意した。
琥太郎の親は資産家であり、マンションを何棟か所有していたが、彼の住む部屋もその一つで、そこには地元の友人がいつも集まっていた。そして、専門学校から近いこともあり真由子はもちろん、誠二や千紗も週末遊びに来るようになると、いよいよ無法地帯と化したその部屋では、朝起きると知らない女が床に寝ている珍現象も度々あり、連れ込んだ犯人もおよそ検討が付いていた。
「また、結城くんの彼女?」
廊下に転がっている派手な女を見て真由子が言った。結城とは地元の幼馴染である。二人がカラオケオールから自宅に戻ると、死体のよう眠る女に遭遇するのは三度目だ。
「ナンパして連れ込んだだけだろ」
「さすが結城くん」
「なにがだよ、ちゃんと持って帰ってくれないと困るだろ。まったく、この女も何考えてんだか、結城なんてあからさまにダメ男だろ」
「でも、カッコいいから」
琥太郎は酔っていたこともあり、その言葉が無性に癇に障った。
「だったら、お前が結城と付き合えばいいだろ!」
「ふふふ、結城くんは私なんて相手にしてくれないよ、見て見て、この女の子もすごく美人だよ」
見当違いな真由子の答えに琥太郎は膝の力が抜けた。もともと、怒りの感情はあまり備わっていない。仕方なく謎の女を担いでベッドに寝かせ、布団をかけてから別室で真由子とセックスをする。摩訶不思議な生活だったが刺激があり、琥太郎はそれなりに楽しい日々を過ごしていた。
真由子は地元の友人や両親の評判がとても良かった。いつも愛想が良く笑顔で、キャンプやバーベキューをすれば誰よりも働く彼女を皆が賞賛する。一方で千紗は女王のように何もせず、しかしながらその美貌ゆえに誰からも咎められないという真逆の二人が、互いを認め合う親友だったのだから、これもまた奇妙な話である。
そしていつしか、琥太郎の嫁は真由子しかいないと言われ、彼もまた、そんな未来しか想像をしていなかった。
専門学校を卒業したらプロポーズしようと琥太郎は考えていたが、ある日、結城と二人で飲んでいる時に妙な事を提案された。なんだかんだ、小学校から一緒のこの男が一番気が合い、素の自分をさらけ出せたのである。
「はあ? なんて言った」
琥太郎は耳を疑った。
「いや、琥太郎って千紗ちゃんが好きなんだろ?」
結城は枝豆を几帳面に一粒づつ取り出しながら、ニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「ばっ、そんなわけ、そんなんじゃねーよ。それに千紗は誠二の彼女だよ、知ってるだろ? こないだ飲みにいた色の黒いやつ、二枚目の」
「ああ、覚えてるよ」
「だったら――」
「俺は琥太郎が千紗ちゃんを好きかどうか、それを聞いてるんだけど」
「いや、そりゃ友人としては好きだけども」
「ふーん」
「なんだよ」
「千紗ちゃんの友達で菜美ちゃんって子がいたじゃん? バーベキューに来てた、黒髪の、背が低い子」
「え、あ、ああ。地元の友達だって言ってたな」
「紹介してよ、四人で飲もーぜ」
「お前、それが目的かよ!」
「そーゆーことにしてやるよ。親友の優しさだなオイ!」
なぜ、あの時に断らなかったのか。琥太郎はずっと考えないようにしてきた。結果として今の生活があるのだから後悔なんて一つもない。でも、もしも真由子と結婚していたら、そんなことをふと考えてしまう。
それは、顔の整った息子を見た時であり、両親との同居を妻に断られた時であり、ビールを一日に二本までと制限された時だったかも知れない。いずれにせよ、結果は出たのだ。過去は振り返ることしかできない。そして、それは自分だけではない。
そんな風に心に蓋をして、琥太郎は今日まで生きてきた。
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