3,カラオケボックスの女

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3,カラオケボックスの女

「ねえ、私がどこから電話してると思う?」  と、女は言った。琥太郎はハッと我に返り、耳元から聞こえる懐かしい声に意識を戻す。そして、その違和感の正体に気付いたのも同じタイミングだった。 「なあ、何が目的なんだ? こんな今更……」 「ぶー。ねえ、本当に分からない?」 「ああ、サッパリ分からないよ」  と、琥太郎は答えた。それから缶ビールを煽ったが、中身はすでに空だった。 「カラオケよ」  女は秘密を打ち明けるような声色で言った。 「カラオケ?」 「ええ、カラオケボックスに付いてる内線があるでしょ? ほら、飲み物やおつまみを頼む時に使うやつよ、分かるでしょ」 「ん、ああ、まあ」 「そこから掛けているの」 「あのな――」 「怒らないで、冷静になって聞いて。私も戸惑っているのよ、とてもビックリしてるの。こんなことって普通じゃないもの。うん、そりゃ少しは酔っているかも知れないわ、でも意識はしっかりしてるから大丈夫よ」 と、女は言った。 「君は嘘をついているな」 「どうして?」 「君はさっき言ったよね、月が見える、半月だと。カラオケボックスにいたら月は見えない、そんなことは僕にだって分かる」 「え? ハローボックスの角部屋には窓が付いてるじゃない。忘れちゃったの?」 「ハローボックスって、いつの話だよ。とっくに潰れただろ」  と、琥太郎はあきれたように言った。 「やっぱり……」  女はボソリと呟いた。そして興奮を隠さずに続けた。 「ねえ、琥太郎くんの奥さんは幸せ?」  その質問に琥太郎は息を呑んだ。受話器を耳から外し、その通話口をジッと見つめる。しかし、そこに答えなどない。あるいは、答えはもう出ていて、彼は目を逸らしていただけなのかも知れない。再び受話器を耳に戻そうとした時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。 「ねえ、聞いてる?」 「ちょっと待ってくれ」  琥太郎はスマートフォンを取り出してメールを開いた。宛先には黒木、添付された写真には千紗が写っている。先日、同窓会に参加する為に購入したブルーのワンピースから細い手足が伸びていた。後日、カードの利用明細を確認して気絶しそうになった記憶がある。いや、片膝は付いた。確実に。 「琥太郎くん?」 「ん、ああ、問題ない。妻が幸せかって? 勿論だよ。元気いっぱい、幸せ真っ最中って感じかな」  と、彼は言った。額から滲んだ汗が顎を伝ってベランダに落ちる。 「そっか、良かったー」 「良かった?」 「ううん、こっちの話」 「なあ、真由子、君は誠二と何かを企んでいるのか? その、なんて言うか……」 「誠二くんがどうしたの? 彼は幸せ? もちろん千紗と結婚してるよね、あ、やっぱ今のなし、言わないで」 「は?」 「ごめん忘れて」 「何を言って――」 「ねえ、私の話を聞いてくれる? とても不思議な一日だったの。本当に今でも信じられない」  女は琥太郎の言葉を遮りそう言った。そして、マイペースに先を続ける。 「今日はね、三人で葛西臨海公園に行ったのよ。私と琥太郎くんと、千紗の三人。黒木くんも行く予定だったけど、風邪をひいて熱が出ちゃったの。だから三人、意外と珍しい取り合わせでしょ? それでね、琥太郎くんの家で待ち合わせて、エスティマに乗って目的地に向かったんだけどさ、助手席には千紗が座ったのよ。ほら、暗黙の了解で琥太郎くんが運転する時は私が助手席で、黒木くんが運転する時には千紗が助手席って、誰が決めたわけでもないんだけどね、ずっとそうしてきたの。だけどね、今日は千紗が当たり前のように助手席に座ったから少しビックリしちゃった。まあ、でも別にね、それは良いの。後ろの席の方が広々してるし、琥太郎くんが運転している時に後ろに乗るのも初めてだから、これはこれで、ね。それから千紗がカーオーディオを操作して、カセットテープを――」 「ちょちょちょ、ちょっと待って、君はいつの話をしているんだ?」 「いつって、今日よ」 「今日ってお前、その日は……」 「とにかく最後まで聞いて。千紗がカセットテープをダッシュボードから取り出して、琥太郎くんが選曲した音楽を流したのよ。それが私の聞いたことがないラブソングでね、琥太郎くんの趣味が変わったのかと思ったら、千紗が楽しそうに口ずさんでたから、ああ、千紗のために作ってあげたんだなって思ったの、琥太郎くんて優しいからさ、みんなを楽しませようとする、そんな所があるじゃない? 黒木くんが来れなくて、千紗につまらない思いをさせないように、ずっと話しかけていたしさ。私はなんだか、そんな琥太郎くんを見てやっぱり素敵だなって、ふふ、そんなことを考えていたの。そうして暫く時間がたってから、なんだか不思議な道に入っていったのよね、琥太郎くんは道に詳しいから余計な口出しはしなかったよ、けどね、クネクネとした一車線で対向車も一台も走ってなくてさ、私はなんだかとても不安になってしまったの。でもね、琥太郎くんと千紗は楽しそうに野球の話をしていたし、一本道のはるか先にある空はとても澄んでいたから、やっぱり私は黙っていたわ。そしたら急に琥太郎くんが車を停止させたから、何気なくフロントガラスを見たら、お爺さんが膝を抱えて座っていたのよ、とても太ったお爺さんだったけど、なんだか具合が悪そうに道の端に座っているの。私はビックリしたけどね、直ぐに車を降りてお爺さんの元に駆け寄ったわ。それで、どうされましたか? って聞いてみたら『道を間違えてしまいました』って言うの。だから何処に向かっていたのか聞いたら『葛西臨海公園です』って言うじゃない。私は目的地が一緒だから琥太郎くんに同乗させて良いか聞いたの、もちろん快く快諾してくれたわ。そうよね、こんなクネクネした訳の分からない道路にお爺さんを置き去りになんて出来ないわ。お爺さんは何度も頭を下げてから、後部座席の私の横に座ったの。そうして車が目的地に向かって走り出したんだけどさ――」 「え? ちょっと待って! お爺さん? 葛西臨海公園に三人で行った時にそんなこと無かっただろ、え? どーゆーこと? なんの話をしているんだ」  と、琥太郎は言った。 「千紗は板ガムを包みから出してね、琥太郎くんに食べさせてあげたの、それを見たお爺さんがとても嫌そうな顔をしたのがすごく印象的だった」  女は琥太郎の指摘を無視して続けた。 「エスティマがクネクネした道を抜けて紺碧の空が一面に広がってきた時に、お爺さんが私に言ったの。『お嬢さん、どうか過ちを許してやってくれ』って。そう言ったのよ。私が見つめると目を赤くして今にも泣き出しそうな、そんな顔をしていたわ。だから私は分かりましたって答えたの」 「いや、誰だよその爺さん、俺は知らないぞ」 「うん、琥太郎くんは千紗との会話に夢中だったから」 「いや、そーじゃなくて!」 「それでね、私たちは目的地の葛西臨海公園に着いたのよ、お爺さんは何度も頭を下げてから海の方へと歩いて行ったわ。その後は私たちもお弁当を食べたり、観覧車に乗ったり、とても楽しい時間をすごした。うん、凄く楽しかった。それから地元に戻ってきて千紗がカラオケに行きたいって言うから、ハローボックスに来たってわけ」  女は前置きは終わり。ここからが本題よ、とでも言うように一息ついた。受話器の向こうから深呼吸の音が聞こえてきて、それはキッチンの冷蔵庫の鼓動にも似ていた。 「琥太郎くんは聞いたことがないラブソングを歌って、千紗は小さく手拍子をしてた、とても楽しそうにね。それから、一時間くらい経ってから私はトイレに行ったの。なんだか疲れちゃってさ、朝からずーっと一緒だったから、なんとなく気疲れ? ハンカチで手を拭いて、部屋に戻ろうとしたんだけどね、なぜか部屋に入ったらイケナイような、その扉を開いたら全てが終わるような予感がしたのよ。だからね、そっとガラスの扉越しに中を見てみたの、そしたら……」 「真由子、違うんだ! あれは――」 「私。ちょっと訳が分からなくなっちゃって、だってそうでしょ? 琥太郎くんと千紗がそんな、そんな訳ないじゃない? でもね、私は部屋に入れずに後退りしたの、一歩、二歩、三歩目で空いていた角部屋に足を踏み入れてしまったわ。ほら、あの部屋は窓が付いていて、開けて歌う人がいると近所迷惑だから、最後まで客を入れないでしょ? だから今日もその部屋は空いていたのよ」 「な、なあ真由子は今、今……その日にいるのか?」 「その日?」 「ああ、三人で葛西臨海公園に行った帰りに、カラオケに、その……」 「ええ、私は今、その日にいるわ」  テーブルに置いたままのスマートフォンが震える。メールの宛名は黒木だった。琥太郎は固く目を閉じた。瞼の裏に鮮明に蘇る記憶を握り瞑るように固く。けれど、それはベッタリと張り付いた冷蔵庫のシールの様に剥がれない。無理にそうすれば、ボロボロの跡が残ってしまうような恐怖と闘いながら、琥太郎はしばらく逡巡した。    結城に千紗の友人を紹介してから、琥太郎と千紗の距離は急激に縮まっていった。正確には千紗がその距離を詰めてきたのである。彼女はとてもリアリストであり、琥太郎の実家が想像以上の資産家である旨を結城から聞かされると、露骨にその態度を翻してきたのだ。  それでも琥太郎は踊る心を、高鳴る胸を抑えることが出来なかった。安易に身体の関係に至り、それは友人の彼女を寝取るという、外道極まりない行為であると認識しながらも、己の不遇(主に見た目による)を呪うことで、その矛先をあろうことか黒木に向けた。  琥太郎は美しい生涯の伴侶を得たが、大切な女性と友人を同時に失ったのである。両親や地元の友人は手放しで喜んでくれた。美女と野獣と揶揄されるのも納得の新郎新婦。しかし、大切なナニカを犠牲にした上に築いた泥の城は、少しずつ、時間を掛けて崩落していった。あるいは、そうなることは必然だったのかも知れない。   「部屋に入ったらすぐに電話が鳴ったの」  と、受話器の向こうで女は言った。 「入り口の横に付いてる内線よ、それがリンリンと鳴っていて、少し考えてからその電話に出てみたわ。どうしてか分からない、混乱していたのかも知れないし、誰かと会話をしたかっただけかも知れない。私が受話器を耳に当ててみたら『もしもし』って声が聞こえたのよ。琥太郎くんの声、すぐに分かった。それが未来の琥太郎くんだって――」 「真由子! 部屋には戻るな! 今日はそのまま家に帰るんだ。 頼む、真由子。何も聞かずに俺の言うことを聞いてくれ。幸せな未来のためなんだ、頼む、一生のお願いだ、本当に頼む!」  琥太郎は懇願した。 「4°Ⅽ」 「は?」 「指輪が欲しいなぁ」 「買う! なんぼでも買ったる」 「ふふふ、どうして関西弁なのよ」 「真由子、本当に冗談じゃないんだ。絶対に部屋に戻ったらいけない。電話を切ったらそのままエレベーターに乗って、カラオケボックスを出るんだ、分かるな?」 「それは私たちのため?」 「そうだ、俺たちの未来のためだ」 「……」 「真由子! 頼む、頼む……。君を愛してる」 「分かったわ、琥太郎くんを信じる」   女はそれだけ言って通話を終えた。琥太郎は受話器をテーブルに置いてから、スマートフォンのメールに添付された写真を見た。震える手の中では、黒木と自分の息子が並んで写っていて、その顔はとても良く似ていた。
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