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車で自宅へと戻り、買ってきた食材を母に届けたあと、再び車に乗り込む。自宅からいちばん近くにある浜辺である吹上浜に向かった。目的地に辿り着き、路肩に車を停めて降りる。夏の昼間は混み合うのだが、時間も時間なので周囲に人気はなかった。車のエンジン音も聞こえない。あるのは波の音だけ。耳に心地よいこの音が、幼い頃から好きだった。
どうして吹上浜に行こうと思ったのか——実のところ、自分でも分からない。
翔のことが頭から離れなくて、海でも眺めていれば無心になれるだろうと思った。だけど、吹上浜は、翔と交際をしていた高校時代に、よくデートで来ていた場所でもあった。
「笑っちゃうよねえ」
誰もいない浜辺に、私の独り言はぽつんと落っこちる。誰も拾ってくれやしない。圧倒的な孤独に、心が押し潰されそうになる。
こんなことなら、素直に菜々の誘いを受けていれば良かったかな。
菜々や隼人と一緒なら、翔とだって昔みたいに話せたかもしれない。菜々の言うように、向こうだってきっと時効だと思ってる。大人になった今なら、そんなこともあったねって、酒の肴の一つにできたかもしれないのに。
臆病な私は翔に会いに行くことができなかった。
それは、翔のことがどこかでずっと引っかかっていた証拠だ。別れてから今まで、翔のことなんてもう忘れたと思っていたのに。翔のいない人生にすっかり慣れてしまっていたはずなのに。
私は、こんなにもあの人のことを忘れられていなかったんだ。
「かける」
久しぶりに彼の名前を、誰もいない場所で呟いた。付き合っていた頃は、喧嘩したあとなんかによく部屋で彼の名を呼んだ。返事がないと分かっているのに、あえてそうしたのだ。翔はずっと自分の心中を知ってくれている。その安心感を得るための小細工だった。
人気のない海では、潮風と波の音と、地面に広がる砂が、私をのみこんでいくようだった。私はここにいるのに、茫漠とした自然にのまれてかき消される。人が住まなくなった家屋が蔦で覆われていくのを想像する。人間がつくった建物を蔦が閉じ込める。今の私の煮え切らない思いも、砂浜の中に閉じ込めてほしい。意味のない想像をしてはまたため息をついた。
「朝香?」
ざざざ。
波の音が揺れるのと同時に聞こえてきた声に、身体がぴくりと跳ねる。
なに? と考える暇もなく、心臓が荒れた海のように暴れ出す。振り返らずとも分かる。テノールの声は、私の記憶の中のそれと完全に一致した。波の音に重なっていても、聞き間違えるはずがない。
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