第二章 潮の香

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「はあー! 疲れたー! 朝香手加減しなさすぎだって」 「それはこっちの台詞です。私のこと女だって思ってないでしょ」 「いやいや、ちゃんと分かってますって。ただあんまり楽しかったからつい」  屈託のない笑顔を浮かべる翔の顔を見ていると、最初にいたずらをされたことなどすぐに許してしまいそうになった。それに、翔の言うとおり、正直楽しかった。馬鹿みたいに水を掛け合ってお互い潮で髪の毛がベタベタになっている。こんなデートになるはずじゃなかったという気持ちと、こんなデートっていいなという充足感に満たされていた。 「お尻、砂で汚れるけど大丈夫?」 「今更そんなこと気にしないよ。服も結構濡れたし」 「あーやっぱりごめんな。綺麗なワンピースなのに」 「ううん、いいよ。きっと洗ったらすぐ取れるから」  お気に入りのワンピースが汚れてしまうのは確かに悲しいけれど、翔と楽しんだ証拠だと考えたたらどうってことない。 「朝香っていつも私服の時はそんな感じの綺麗めな服装してるの?」 「え? うーん、どうだろ。普段はもっと動きやすい格好してるかも。でも服は好きだよ。可愛い服着るとテンション上がるし。そういう翔は?」 「俺はいつもこんな感じ。適当なシャツとズボン履いてる。同じのばっか着てるかも」 「へえ、意外だ」  私はてっきり、東京からやってきたという翔のことだから、もっとオシャレに関心があるのかと思っていた。同じ服ばかり着ているというのは予想外だ。 「いや、うちってシングルマザーだからさ。余計なものにお金使えないだけー。まあ、俺自身そんなに服にこだわってるわけでもないしな」 「シングルマザー……そうなんだ」  バスに乗っている時に聞いた翔の話から、なんとなくそうなんじゃないかと予想はしていた。でも、本人の口から聞くことになるとは思っていなくて、なんとなく気まずい空気が流れる。シングルマザーということは、お父さんは離婚したのだろうか。それとも死別か——そんな想像が掻き立てられて、なんとも言えない感情が溢れてきた。 「あ、ごめん。辛気臭い話しちゃったな。父親、別に死んだとかじゃないから。母さんが若い頃に俺を産んで、逃げ出したパターン。よくある話だろ?」  まるで一つのドラマの話でもするかのように、あっけらかんと父親について語ってみせる翔。その顔は、確かになんでもないというふうを装っていた。でも翔の心のうちは、分からない。本当は父親がいないことを寂しいと思っているかもしれなかった。 「よくある話かは分からないけれど……お母さんと幸せに暮らしてるなら、私だったら、それ以上は考えない、かも」  翔の家庭の事情についてよく知らない自分が、どんなふうにこの話に踏み込んでいいか分からない。でも、今の翔が幸せだと感じているならもうそれでいい。その時は本当にそう思った。
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