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第三章 波の音
チチチチ
ミーンミンミンミンミン
ジージージー
爽やかな鳥の声に混じって聞こえてきた、耳障りな蝉の大合唱で目を覚ます。
ぼんやりと頭がかすんでいるけれど、翔と出会ってから付き合うまでの夢を見ていたのははっきりと思い出せる。
「翔に再会したからこんな夢見たんだな」
我ながら単純な人間で、思わず苦笑した。
高校生の時に出会った翔はいつだって明るくて、純粋で。私のことを真っ直ぐに愛してくれていた。幸せだった時の記憶が蘇ってきて、なんだか胸がうずうずとする。これまでも、定期的に翔の夢を見てきたのだが、今日はいつも以上に、気持ちが昂っていた。
それもこれも、今淡路島に彼がいるせいだ。
その事実が、こんなにも私の心をかき乱す。
冷静さを取り戻すために、いつも通りに布団から起き出して、身支度を整える。一階のリビングで朝ごはんを食べていると父親から声をかけられた。
「今日と明日、俺はちょっと出張に行ってくるから。店の方よろしく」
「出張?」
そんな予定だっただろうか。知らなかったので首を捻る。
「急に昨日決まったんだ。大阪の方で商談がある。まあ、俺がいなくても大丈夫だと思うが念のため伝えておくよ」
「ふうん、了解です」
大阪ならば一泊せずに帰って来られる距離だが、遅くまで予定が詰まっているのかもしれない。私は神妙に頷いてバタバタと忙しなく家を出ていく父の背中を見送った。
「行ってきます」
朝ごはんを食べ終えた私は、母に向かって声をかけた。母は専業主婦だが、毎日仕事で忙しい父や私のことをサポートしてくれている。昔からうるさいと感じることもあるけれど、感謝している部分ももちろんあった。
「はい、行ってらっしゃい」
母に見送られて、私はそそくさと香風堂に向かった。今日も晴天。痛いくらいの日差しが肌を突き刺す。歩ける距離ではあるけれど、あまりの暑さに車に乗り込んだ。
「こんなに暑いのに、よく浜辺でデートなんてしてたわね……」
今日見たばかりの夢がフラッシュバックする。
翔と付き合い始めたのはちょうど十年前の昨日、七月七日のことだ。
つまり、今と同じくらい暑かったはずである。まあ、十年前のことだから今よりは暑さもましだったのかもしれないけれど。それでも、低くても一、二度しか変わらないだろう。
それだけ若かったんだな、と考えているとなんだか切なさが込み上げてきた。
今の自分だって、世間からすれば十分若いじゃない。
この歳でお店を任せられているのだから、褒められるぐらいじゃないだろうか。
そこまで考えて、何言ってんだか、と自分自身に呆れる。
褒められたいと思って跡を継ぐわけじゃないのに。
親から押し付けられた役割から、逃れられずにただ流されて生きているだけ。
私は何も選んでない。菜々のように自分のお店を開こうと、神戸の大学に進学して経営学を学んだり、隼人のように、父親の背中に憧れて漁師という仕事に就いたりしたわけじゃない。私はいつだって、敷かれたレールの上を歩いているだけじゃないか——。
苦い気持ちを抱えながら、海沿いの香風堂にたどり着く。頭から邪念を振り払って、店を開けた。暖簾を綺麗にかけて、店内を掃除する。
手を動かしていれば、余計なことは考えずに済む。
いつも、いつだって、無心で仕事をするのに精一杯になっていた。
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