第三章 波の音

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「仕事何時まで?」 「今日は十八時」 「うわ、あと四時間もあるのか……」 「待てないなら帰ってもらって大丈夫だけど?」 「いやいや、待つよ。せっかく話させてもらえるって言うんだからな」 「はいはい」  私は野良猫を追い払うような口ぶりでひらひらと翔に手を振った。翔は、むっとしたような表情をしながらお店を出ていく。  ……はあ。やっと出て行ってくれた。  ふう、と息を吐き出すと、店の中を漂うお香の匂いがつんと鼻を掠めた。この匂いに一日中囲まれているというのに、ふとした時にしか香りを感じることができなくなっている。  それぐらい生活に溶け込んでいると言えばそうだが、実態のないふわふわとしたものを商売にしている気がして、なんだか嫌気が差した。  その後、十八時までせっせと接客をしながら仕事を終える。父が出張でいないので、本部とのやりとりもしっかり行った。今や父が不在でも当然のように会社は回っていく。私なんかもっと、いる意味がないんじゃないかって思えてくるぐらい、会社は大きくなっていた。  お店を閉めて外に出ると、まだ外は完全に日が暮れていなかった。過ごしやすくなった気温の中、自然と彼の姿を探してしまう。 「やっぱりいないわよね」   店の外で四時間、暑い中待てるはずがないと思っていた。  こうなることを見越してあえて「仕事が終わったあと」と約束を取り付けたのだ。本当はあの時、少しぐらい会話をしても良かった。でもあえて、翔を試そうと思ったのだ。我ながら性格が悪い。  翔のことは忘れて帰ろう、と車の鍵を鞄から取り出したところで、「朝香」と後ろから声をかけられた。  まさか。  ずっと待っていたなんて、そんなこと——。  振り返った先にいた彼は、なぜかカップのアイスクリームを手に持ってニカッと笑った。 「お疲れ。これ、一緒に食べようぜ」  彼の手に握られたアイスのカップをじっと見つめる。『Awaji Gelato』というロゴが目に飛び込んできた。 「それ福良港(ふくらこう)の……」 「そう。有名なやつ。懐かしいだろ?」 「……うん」 『Awaji Gelato』とは、香風堂から徒歩十五分ぐらいのところにある小さなジェラート屋さんだ。観光雑誌に載るぐらい有名で、休日はお客さんで溢れかえっている。ちなみに福良港というのは、『Awaji Gelato』のすぐ近くにある港で、そこから渦潮ウォッチングのできる観光船が出ている。私も福良港から渦潮観光船に乗ったことがあった。  あれは確か、中学三年生、十五歳の頃だ。  その時に体験した不思議な出来事は今でも忘れられない。渦潮の中に落ちてしまった私は、どういうわけか見慣れた田舎道で意識を取り戻して。  そこで、保育園児の男の子に出会ったんだっけ。   摩訶不思議な体験を思い出していると、翔が「早く食べようぜ。溶けちまう」と催促してきた。私は、従順な飼い犬みたいに、差し出されたジェラートをすっと受け取る。いちごソルト味。私が昔から一番好きな味だった。  翔は駐車場の車止めの上に座った。私も、そんなところぐらいしか座るところがないので並んで座る。コンビニの前にたむろするヤンキーみたいだけれど、見た目は一応まともななりをした大人二人だ。誰も通り過ぎないことを願った。 「うわ〜うめえ。久しぶりに食べたけど、やっぱり最高だな、これ。塩味がなんとも言えないアクセントになってる」  翔が食べたのはバニラソルト味だろう。彼はいつもバニラ味のアイスを食べていた。シンプルなのが好きだったっけ、と記憶を掘り返す。 「うん、美味しい。私も久しぶりに食べた。夏に食べるジェラートは格別だよね」  ジェラート効果もあってか、素直に翔と会話をしている自分に驚いた。食べ物をくれる人に悪い人はいない。そんな馬鹿みたいに単純な考えのせいだった。 「本当に、疲れた身体に沁みるわ。って、俺今日は働いてもないんだった。疲れたのは朝香の方だよな。お疲れさん」 「うん」
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