プロローグ

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 一体いつからご飯を食べていないのかは分からない。けれど、お腹が空いたと路上で泣くほど窮地に立たされている事実は理解できた。  困ったな、と周りを見回す。周囲にあるのは田んぼばかりで、農家のものと思われる民家がポツポツと点在しているだけだ。さすがに、見ず知らずの人の家に押しかけて「ご飯をください」なんて言う勇気はない。しかも、中学生の私の身体ならまだしも、今は自分の保育園時なんだし——そこまで考えて、はっと閃いた。  自分の肩から下がっている鞄のファスナーを開ける。給食セットと連絡帳が入ったその鞄の内ポケットに、ラムネが入っていた。青いケースに入っている、あの馴染みのあるラムネだ。小さい頃から大好きで、保育園の先生にバレないようにラムネを持ち歩いていたのを思い出したのだ。 「これ食べる?」  何の腹の足しにもならないラムネを、男の子に差し出した。男の子は涙をすんと引っ込めて、私の手の中にあるラムネを見やる。お腹が空いる時に駄菓子なんていらないかな。そう諦めかけたとき、彼は「うん」と頷いてそっとラムネを手にした。  それからはもう必死な様子でプラスチックの蓋を開けて、白くて丸いラムネを一個、二個と、勢いよく取り出した。パクっと、口の中に放り込む。咀嚼する時間はものの数秒だった。いくつものラムネを口の中に入れて、もぐもぐと口を動かす。途中、勢いが良すぎたのかむせてしまったので、私は水筒のお茶も彼にあげた。  一分もしないうちに、男の子はラムネをすべて平らげてしまった。普段なら、友達に自分のお菓子を全部食べれてしまったら悲しいはずなのに、この時はむしろ嬉しかった。 「お腹、大丈夫になった?」  私がそう尋ねると、彼はうん、としおらしく頷いた。が、すぐにラムネのケースが空っぽになってしまったことに気づいたのか、申し訳なさそうにはっと顔を強張らせた。 「大丈夫だよ。私、家にもまだラムネあるし。怒ってないよ」  男の子の顔が安堵で緩む。泣くほどお腹が空いていて、たぶんラムネを全部食べたところでお腹いっぱいにはなっていないはずなのに、他人のことを気遣える男の子のことを愛しいと思ってしまった。  それから自分がどうやって男の子と別れたのか、はたまた彼を家まで送り届けたのか、覚えていない。気づいた時には、中学生の自分の身体に戻っていて、しかも渦潮観光船「うしお丸」に乗っていた。渦潮の中に落ちる前に、乗っていた船だ。はっとして周囲を見回しても、慌てる客や取り乱している客は一人もいない。みな、渦潮の解説を聞きながら、鳴門海峡に一際大きな泡を発生させている渦潮を覗き込んでいた。  さっきのは一体なんだったんだろう……。  あまりにも不思議な体験に、夢だったのではないかと疑った。いや、きっと夢じゃない。男の子の不安そうな表情も、私の手からラムネを受け取った時に触れた彼の手の感触も、確かに残っている。  それに、なんとなく男の子の顔に見覚えがあると思った。でも誰なのか、思い出せない。そのうち記憶が曖昧になっていって、一週間もすると男の子の顔はもやがかかったように、思い出せなくなった。  ただ、十五歳の時に鳴門海峡の渦潮に飲み込まれて不思議な体験をしたという記憶だけが、十年以上経った今もなお、こびりついている。
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