第三章 波の音

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 相変わらず、昔と同じテンションで話しかけてくる翔に、どういう気分で答えたらいいのかは判然としない。頬を撫でる生ぬるい夏の風を感じると同時に、ジェラートが少しずつ溶けていく。慌ててそれを口の中へ放り込む。翔の話に相槌を打つ。その繰り返しだった。 「仕事は、順調か?」  何の話をするのかと思ったら、仕事のことか。  よりにもよってその話題を選ばなくてもいいのに——と悪態をつきたくなったが、じゃあ何の話なら受け入れられるのか、それも分からなかった。 「順調……といえばそうなのかな。可もなく不可もなく。淡々とやるべきことをこなしてるだけ」  つっけんどんな言い方になってしまった。モデルや俳優という、自分らしさ全開で仕事をしている彼に対する当てつけのような気もした。 「そっか。やるべきことをちゃんとやってるの、高校時代の朝香のまんまって感じだな。あの頃から責任感強かっただろ。家のことも、たくさん悩んで頑張ってたんもんな」 「……」  翔の言葉に、ちくりと小さな棘が胸に刺さったような感覚に陥った。  家のことも、たくさん悩んで頑張ってたもんな。  ……違う。頑張ってなんかない。  高校時代の私は、夢を見ることを許されず、親から厳しい教育をされ跡取り娘として育てられることに、ただただ窮屈な思いをしていた。  片や周りの友達は、どこそこの大学に進学するとか、将来は医者になりたいだとか、輝かしい夢を語っていたから。菜々も、隼人も、自分の目標に向かって一生懸命だったのを見ていると、自分はどうしてこんなにもがんじがらめなんだろう、と自分の運命を呪った。  やがてその息苦しさは限界を迎える。  海に落ちて、ものすごい勢いの渦の中で息ができないのと同じだった。  翔と交際している最中、親とぶつかることが多くて、つい翔に何度も愚痴をこぼしてしまって。  それがきっかけで、翔の心が離れていったのは疑いようもない真実だ。 「あの頃は……ごめん」  口をついて出たのは、謝罪だった。  きっと、私がストレスを溜め込んで翔に愚痴ばかり漏らしていたせいで、愛想を尽かされたと思っていたから。翔は「いいよ」「大変だよな」と慰めてくれていたけれど、本当のところはどうだったのか分からない。少なくとも、私が翔にストレスを与えてしまったことだけは理解している。 「なんで朝香が謝るんだよ。俺の方こそ、ごめんな。支えてやれなくて」  しんみりとした空気がお互いの間を流れる。手の中のジェラートが溶けてなくなっていた。「あっ」と声を上げた時にはもう遅くて、溶けてしまったドロドロの液体をすくう気にはなれなかった。  翔の横顔は、見たことがないくらい迷いに揺れているみたいに複雑な表情をしていた。彼と交際していた頃も、彼をテレビの中で見るようになってからも、一度も目にしたことがない、翳りのある顔だった。一瞬、その男が誰なのか分からなくなるぐらい別人に見えてドキリとした。でもすぐに「今更何言ってんだって思うよな」と軽く笑って、いつもの翔に戻った。
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