第三章 波の音

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 今のは一体なんだったんだろう……。  私だけが見てしまった幻想か、私の妄想がそう見えるように錯覚させてしまったのか。  彼らしからぬ暗い表情が、頭の中にこびりついてしまった。 「翔は……なんで淡路島に戻ってきたの?」  気がつけばずっと気になっていた疑問を口にしていた。  東京で華々しくデビューして、今をときめく俳優として仕事が絶えないはずの彼が、なぜ今淡路島に帰ってきたのか。 「なんで、か。ちょっとした休暇。いや、休憩? マネージャーが少しぐらい休んだらどうかって言うから。休んで何しよう、東京の街中をふらふらするわけにもいかないしー一般の人にバレたら面倒だしどうしようって思ってたところで、淡路島のことが浮かんだんだよ。ここなら、たくさんの人に会うこともないし、疲れない。それに、会いたいやつに……会えるかなって」 「会いたいやつ……」  翔の視線が私の手元に注がれる。「それ、ちょうだい」とジェラートを食べ終えたカップを指差した。  私は翔の“会いたいやつ”なんだろうか。  そんなこと恥ずかしくて聞ける気がしない。聞かなくても分かってしまうし、わざわざ口にするなんて野暮だろう。 「人気俳優さんも、大変なんだねえ」  しみじみとした口調で出てきたのはあまりにも陳腐な慰めだった。 「もう本当に、大変なんだよ。朝香には伝わらないと思うけど、毎日忙しくて目が回る。スケジュールを管理するのもやっとで」 「へえ、そんな毎日なんだ。なんか、考えられないなあ……」  自分だって毎日仕事が入っているのは同じだけれど、翔の場合は格別だろう。忙しさを想像するのは難しいけれど、忙しいということを想像するのは容易かった。 「キラキラして見える仕事ほど、しんどいって言うしね」 「まさにそれ。俺、俳優がこんなに酷な仕事だとは思ってなかったんだ」 「俳優、自分からなったんじゃないの?」 「違うよ。スカウト。最初は男性向けファッション誌のモデルにどうかって誘 われて。俳優デビューはその後」 「そうだったんだ」 「公式で公開してるはずだけど、知らねえの?」 「うん、知らなかった。別れた恋人の人生だし、そこまで追いかけてたらむし ろストーカーじゃん」 「そうか? 俺は朝香が俺にそんなに興味がなかったのかって、ちょっとショックだよ」  本当に肩を窄めて凹んでいるように見える翔。なんだか自分が悪いことをしているような気がしてしまう。俳優になってからの翔を必要以上に追いかけなかったのは、自分の気持ちに蓋をしたかったからに他ならない。彼のことを詮索すればするほど、翔を好きだった時の気持ちや、別れ際に感じていた後悔がどうしようもなく胸を痺れさせるから。あえて、見ないようにしていた。  だってそうでもしないと、今なお磨けばどこまでも輝こうとしているダイヤの原石みたいな彼への気持ちがまた、再燃してしまうかもしれないじゃない——……。  十年間、私の胸の奥底で眠り続けている、見た目はなんの変哲もない石は、翔への思慕だった。
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