第一章 月の海

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「考えなくていいのは楽なんだけどね」  何か、大きなことを成し遂げたいとか、自分にしか成し得ない目標を掲げて頑張りたいとか、そういう気持ちはプレッシャーにも変わる。だから、自分のように与えられた役割をこなせばいいという状況は、ある意味恵まれているのかもしれない。  ……でもやっぱり。  時々、昔から夢だった自分の店を開くことに成功した菜々のことが、羨ましいと思うことがある。隣の芝生が青く見えているだけだって分かってる。でも、菜々が毎日汗水垂らして楽しそうに働いている姿は、今の私にはまぶしすぎるのだ。  菜々がやっているのは、「お香カフェ」という新しいタイプの店だ。屋号は『海のいろどり』。うちで作ったお香を店内で採用し、お客さんはお香の匂いを嗅ぎながら食事ができる。強すぎる匂いは飲食店では逆効果になることがあるが、菜々は研究に研究を重ね、心地よく食事ができるお香を調節して設置しているようだ。彼女のお店で使っているのはすべてうちの商品だから、度々二人で商談のようなものをしている。と言っても、幼馴染だし、堅苦しい会議はしない。互いの店に行ったり来たりして、駄弁りながらお香について語るのだ。その時間が、私はとても好きだった。 「朝香の作るお香を使って、お客さんを癒すの。私は美味しいご飯を提供する。そんなお店をいつか作りたいって思って」  初めて彼女が私に夢を語ってくれたのは、高校二年生の頃。初めて学校で「進路調査票」なるものが配られて、お互いの将来について語り合っていた時だ。私は大学に進学する予定がなくて、進路調査票には“家業を継ぎます”と書いた。先生から「大学を出てからでもいいんじゃない?」とアドバイスを受けたが、私は首を横に振った。どうせ家業を継ぐのに、大学を出たって意味がない。お金がもったいないだけだと思った。頑なな態度をとる私のことを見かねて、先生は両親にも掛け合ってくれたそうだが、両親も私と同じ意向だった。それならば、とやっぱり大学に行く気はなくなって、私は高校を卒業してから十年、こうして香風堂で働き続けている。  菜々は反対に、大学で経営について学びたいと目をキラキラさせて語っていた。淡路島には適当な大学がないから、神戸の大学を目指していると言った。私はただただまぶしくて、夢を語る菜々に嫉妬しながらも「頑張ってね」と応援するしかなかった。  それに、菜々が私と協力するかたちでお店を開きたいと言ってくれたことが、ほのかに私の胸に希望の光を灯してくれたから。  大学進学を機に、島を旅立っていく菜々を、清々しい気持ちで見送った。  同時に、もう一つ、島から出ていくのを見送った背中が思い出される。  菜々よりも一回りほど大きくて、たくましい背中。  もう二度と声をかけることができないと、つんとした切なさを唇の中で噛み殺して、静かに見つめるだけだった。大きな背中はもう、振り返ることはない。私のために、彼は振り返らない。  高校生になって出会い、恋をして、そしてお別れをした彼——|天ヶ瀬《 あまがせ》翔は、私には到底届かない海の向こうに飛び立って行った。
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