プロローグ

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プロローグ

 首都近郊のとあるオフィス街。スーツ姿で先を急ぐ人が多い中、悠々と歩を進める人物がいる。長い髪を後ろで一本の三つ編みにし、黒を基調とした服に身を包んだ若者だ。アパレル店員かアーティストか、さもなくば定職に就いているようには見えない風貌だ。  すれ違う女性がちらちらと視線を向けてくるのに対し、軽く口の端で笑みを返す。ひとりではない。幾人もの女性が、時には男性もが視線を向けてくる。若者は手に持ったビニール袋を持ち直し、道端の自動販売機でお茶を二本買うと、雑居ビルの階段をのぼっていった。  雑居ビル三階の突き当たり、曇りガラスに「直門(すぐかど)探偵事務所」と墨色で記された扉を開ける。 「ああ! (いつき)! 帰ってきちゃったかあ。アイスも買ってきてって連絡しようとしてたところだったのに」  若者が扉を開けると、中にいた男性が悲痛な声を上げた。三つ揃えのスーツを洒脱に着こなした壮年男性だ。  樹、と呼ばれた若者は、壮年男性に向けて片手に二本持っていたペットボトルのうち一本だけを器用に投げた。 「自分で買いに行けよ、ボス」  ボスと呼ばれた壮年男性は、この直門探偵事務所の所長だった。直門尚幸(なおゆき)。樹の叔父である。  直門探偵事務所は、尚幸と樹、叔父と甥のふたりでやっている事務所だった。名家と呼ばれる直門家の中で異端と名高い尚幸は、経営者の仲間に加わる道から逸れて警察に入り、退職後は探偵事務所を開業したのだった。  樹と尚幸は応接セットに向かい合って腰かけ、買ってきたばかりの牛丼を頬張る。半分ほど黙々と食べすすめたところで、そういえば、と尚幸が声を上げた。 「俺さ、半年くらいかな。イギリスに行ってくることにしたんだよ。だから樹、この探偵事務所をしばらくお前に任せるよ。俺がいない間、しっかり守っといてくれよ」  思いがけない言葉に、箸を止めて叔父の顔をまじまじと見つめる樹。 「なんでまた」 「イギリスの探偵ってどんなもんなのかなって気になってな。実際に行ってみて、勉強させてもらおうと思ったんだ」  一緒に仕事をしている樹には一言の断りもなく、である。急に出張に行くのは毎度のことであるから樹も慣れたものはあるが、約半年も事務所を預かるとなれば重さが違う。不安げな樹の様子を感じとったのか、尚幸は身を乗り出して甥の肩を突いた。 「お前なら大丈夫だよ、樹。ま、浮気調査を依頼しに来た奥さんに、うっかり惚れられないようにだけ気をつけてりゃな」  笑えない軽口だった。先日来た依頼人に、実際に惚れられたとあっては。
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