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そんなわけで、唐突にひとりになった事務所で樹は天井を見上げていた。
直門探偵事務所は、ひとえに尚幸の経歴と人脈、実力によって評判を保っていた。尚幸について仕事をしていたとはいえ、樹はまだまだ見習いである。尚幸不在とあっては、依頼人の顔が曇るのは避けられなかった。相談内容も話さずに帰っていた依頼人もひとりやふたりではない。開店休業中と言っても差し支えない状態だった。
毎日の習慣だった掃除も、一ヶ月を過ぎたあたりから疎かになってきた。各々のデスクと応接セットはかろうじて毎朝拭いているが、それ以外には薄く埃が積もりはじめている。閉じかけのブラインドから差し込む光に、舞っている埃が輝いて見えた。
そんな時間が止まりかけている直門探偵事務所に、数日ぶりの依頼人がやってきた。
「ごめんください」
扉をノックしたのち、現れたのはまだ年若い少女だった。豊かな真っ直ぐの長い黒髪を垂らした少女は、身のこなしといい、身なりといい、見るからにお嬢様といった風体だ。
「こんにちは。本日はどういったご用件でしょうか?」
樹は立ち上がり、ソファをすすめた。棚からミニペットボトルのお茶を取り、ローテーブルに置く。
「どうぞ。あいにく、所長の直門尚幸は長期出張中でして、それでもよろしければご相談を承りますが」
軽く会釈をしてソファに腰かけた少女と、ローテーブルを挟んで樹も向かいに腰を下ろす。お茶には手を付けず、少女が口を開いた。
「そうなのですね。問題ありませんわ。わたくし、あなたに依頼したくてお訪ねしましたの。直門樹さん?」
樹は少女を見つめた。まだ名乗っていないのに、少女は樹の名前を言い当てた。
「私とどこかでお会いしましたか?」
「いいえ。あなたのお兄様から、こちらの探偵事務所のことをお聞きしてやってまいりましたの。『叔父のやっている探偵事務所で弟が働いているから、依頼してはどうか』と」
ついでに、弟が元気にやっているかも見てきてほしいと頼まれましたわ、と少女は口元に手を当てて笑った。
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